無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10711日

 このブログを書くときが、生きられる時間が一日減っているという現実に気づくときでもある。5月にブログを始めて7ヶ月、約200日は過ぎてしまったんだが、何か変ったのか、何も変わらんのかさっぱりわからんな。朝起きて掃除、太陽参拝、祝詞奏上、古事記神代巻、朝の論語、と続くんだが、最近女房がいるのでなかなか予定どおりにはゆかないこともある。近頃は夜には「言霊と太陽信仰の神髄」を読んでいるが、読むたびに新しい発見があるということは、ただ単に頭がぼけて以前読んだ事を忘れているだけなのか、自分が変る事によって新しい見方ができるようになったのか、これも何とも言えんな。

 所謂引きこもり実験が終了した、11月1日から少し変ってきたことといえば、特に家に居るという事を意識しなくなったということかな。それまでは家に居るということを大前提として何事にも向き合ってきたが、11月からはそうではなく、居てもいいし、居なくてもいい、とにかく今日やるべき事をやるという、まさに10月に気が付いた、今日を生きるという生活、これが大前提になっているんじゃないかと考えている

 ただ、そうは言っても、今日なんかも何をしたかといえば、朝起きて掃除参拝祝詞が終わった後、女房に言われて、家の中で住宅地図を探しまわり、干し柿を吊るすのを手伝い、就職祝いに頼まれた腕時計と自分で使うシュレッダー、wifiルーターを買いにエディオンに行き、帰って来て夕食後wifiルーターをセットして、今それを使っているというだけで、何の変哲も無い一日だったんだが、果たして今日一日が何の変哲も無い一日だったということが、わしにとってどんな意味があるのか、それを考えているのも事実なんだな。

 わしは何の変哲も無い一日というのは決して無駄な一日ではないと思いたい。何の変わりもなく、わしも含めて周囲のみんなが元気に平穏に一日を過ごせたということは、それはそれで意味はあるということは間違いないとは思うんだが、それだけでいいのかという気持ちが常に存在して、それがわしを前に衝き動かす1つの原動力になっているのも認めなくてはならないんだろうな。