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無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10709日

 もう16年も前になる2000年の7月に、親父が戦争中の事を備忘録のかたちで書き残していたのを、わしが簡単に箇条書きでまとめたことがあったんだが、昼から部屋の整理をしていると、押し入れの奥の方から、それをプリントアウトした用紙が出てきた。内容は、終戦も直前の昭和20年7月から9月くらいのことだ。親父は朝鮮で営林署の職員だったので招集にはかからないと思っていたら、昭和20年6月になって光州に出頭するよう赤紙がきたらしい。当時の役職が江陵営林署襄陽森林保護区・造林事業所主任兼務で、みんなから餞別を3000円くらいもらったが、私物は持っていけないので、水原に居た元営林署長に2000円を預けといた。3000円で家が建つというくらいだから結構な額の餞別だったな。親父は1000円だけもって二等兵で入営したらしいが、既に軍紀も乱れていたんだろう。金を持っているというんで重宝されたようだ。最初陣地構築作業に出されたがスコップが無いので自分で調達したこともあった。その後、済州島に送る米を港まで運ぶ作業をしたが、金を持っていたので、スイカや、まくわうりなんかを自由に買って皆で食べたし、焼酎なんかも買って飲んでいたようだ。食べ過ぎて腹をこわしたこともあったらしい。3000円全部持って来たら良かったと後悔したと言っとったな。

 その後水原高等農林学校の校庭に移動するんだが、出動命令がでたとき、親父は井上上等兵の使役で、酒屋に焼酎を買いに行っていた。出動など知らないから、酒屋でも飲んで、押っ取り刀で焼酎の入ったうむすけを担いで帰ったときに、「気をつけ!」という中隊長の声が聞こえた。門のところで井上上等兵が親父の荷物も抱えて「おまえの私物はここに全部持って来とるのですぐに集合せい。」と言ったらしいが、まさに要領を宗とす、だな。移動のトラックの上でもみんなで焼酎を飲んだそうだ。

 軍隊だから当然、兵隊は歩哨に立たなければならないんだが、親父はなんと寝過ごして歩哨に立たなかったことがあったようだ。歩哨が交代を告げに来て、手形代わりに班長の腕時計を受け取ったんだが、もう一度寝てしまった。どのくらいたったのか、ふと目覚めて、あわてて班長の腕時計をみると、すでに3人後の順番になっている。そこでちょうど今当番に当たっているものを起こした。順番を飛ばした者には翌朝謝っといたが、起きなくてすんで良かったと、かえって喜ばれたそうだ。

 平和な水原周辺と違って、入営前に住んでいた襄陽にはソ連軍が真っ先に上陸し、若い女性はみんな強姦され、警察署長は射殺されていた。親父等の部隊はその襄陽よりさらに北の咸興に行くため貨車に乗って出発を待っていたんだが、さあどうなるか、意外な展開がまっているんだが、続きはまた次回に。

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