無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10708日

 さて、前回あと10709日の続きだが、翌朝龍山駅で咸興へ向かうために貨車に乗り込んだが、一向に出発する気配がない。3日か4日か待っているうちに、咸興方面からの汽車が着いた。見ると乗っているのは、包帯を巻いた怪我人ばかりだった。親父等が「どしたんぞ?」と聞くと「おまえらどこに行くんぞ?」と逆に聞いて来た。咸興だというと「わしらは咸興から逃げてきたんじゃ。あそこにはもう行けん。」と言われ、部隊の咸興行きは中止になり、そのまま龍山で終戦を迎えた。行っていたら、悪くて戦死、良くてシベリア抑留、いずれにしても生きて帰ってはこられなかっただろうな。

 終戦後、幸いな事に南側にいたのでアメリカ軍がやってきて、小隊は武装もそのままで、在留邦人保護のための特別警察隊となり、水原警察署駅前交番勤務となった。

京畿道巡査を命ずる  月俸45円を給す 京畿道知事

という辞令を9月にもらった。つまり日本の統治機能をそのまま残したんだな。今まででも70円もらっとったのに、たった45円にはまいったらしい。元二等兵の親父は巡査で、巡査部長はあの井上元上等兵(はなかつお製造工場を経営していた。襄陽在郷軍人分会)だった。その井上巡査部長が言うには、軍隊もないし、今はもう人の世話をしとる時じゃない。早く逃げた方が良いということだったようだ。交番勤務の3人は逃げるという事で意見が一致し、その日から毎日宿泊場所である警察署の武道場から、私物を毛布にくるんで、首からかけて出勤するようになった。それを隊長が見て、みぐるしい真似をするなと怒られたが、盗難防止だと言い逃れた。

 水原駅前交番は武装解除された軍隊が、釜山へ向かう通り道にあたり、食料を取りに京城へ向かうトラックがよく通った。そこで、もし京城へ向かうトラックが通ったらそれを止め、責任者に交番まで来てもらうことにしていた。井上が立ち番していた時トラックがやって来た。「来た来た!」井上が叫んだ。京城まで乗せて行ってほしいと言うと、責任者は特別警察の人が一緒に乗ってもらえばこんな幸せな事は無いといってえらく喜んだらしい。3人は持っていた鉄砲を捨てて、私物を掴んでトラックに飛び乗った。

 京城にはいる手前の漢江にかかる橋のたもとで、米軍MPに止められたが、3人が特別警察の腕章を見せて敬礼すると「OK」と簡単に通してくれた。運転士はありがとうと言って、御礼に麒麟麦酒の工場に案内してくれた。工場を管理する日本人はいなくなり、できあがったビールがいくらでもあったので、3人でたらふく飲んで、運転士と別れた。

 京城の旅館に泊まっているときに、押し入れの中に米袋があるのに気が付いた。その米袋と一緒に憲兵の腕章があったので、持ち主は元憲兵だなと察した3人は、憲兵なら大丈夫だ、奴ら戦争に負けたんでえらそうには言えまいと、そのほとんど食べてしまった。何日かしてひとりの男が部屋をのぞきに来た。「なにしよん?」と問うと「ここに米がなかったでしょうか?」と聞いたので「あ、これかな。」と、ほんの少し残った袋を渡すと「ありがとうございます。」と言って帰っていたらしい。兵隊にも嫌われていたんだな。

 京城でアーノルド少将の判を押した引き上げ証明書をもらい、引揚船を待つ間、襄陽にいた時の知り合いと会って、悲惨な状況を聞いたようだ。親父も招集されていなければ同じ運命をたどったはずで、まさに強運としか言いようがないだろうな。人事的にはどんな処理がされたのかしらんが、1ヶ月ちょっとで陸軍そのものが消えて無くなったんだから人事もくそもなかったんだろうな。朝鮮時代のことはおもしろおかしく、いろいろ話してくれたが、この引き揚げの話はこのとき初めて聞いた。これをわしに話したときも、もう時効でいいだろうというような言い方をしていたから、親父にしてみたら、逃げて帰ったようなかたちで引き上げてきたのは、或は本意ではなかったのかもしれんな。

 死ぬ前に、わしのスマホで、親父の好きだった田端義男の「かえり船」を聞かせたら、目を閉じてうなずきながら聞いていた。

1 波の背の背に 揺られて揺れて
  月の潮路の かえり船
  霞む故国よ 小島の沖じゃ
  夢もわびしく よみがえる

2 捨てた未練が 未練となって
  今も昔の せつなさよ
  瞼(まぶた)あわせりゃ 瞼ににじむ
  霧の波止場の 銅鑼(ドラ)の音

3 熱いなみだも 故国に着けば
  うれし涙と 変わるだろう
  鴎ゆくなら 男のこころ
  せめてあの娘(こ)に つたえてよ