無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10668日

 今日は朝から結構強い雨で、女房が友達と会う約束をしていたが、雨で行けないというので8時に起こされて、車で最寄りの駅迄送って行った。また、長男夫婦が土地を探しているんだが、良い出物があったのでそれを見に行くから、うちに寄るという連絡があった。女房もいないし、わしはてっきり昼には来るんだろうと思っていた。それからでは何を始めても中途半端になるので、何にも手をつけずに待っていたんだが、もう5時になろうとするのに何の連絡もない。今日は1日無駄にしたような感じだな。

 毎日心平穏にと思っていても、生きている限り、自分だけの世界で完結する事はできないから、自分以外との接点が必ず生まれて来る。今日の場合だと、女房を送る事、長男一家が来ることが予定外の出来事だったが、これを面倒くさいと考えるか、役にたってよかったと考えるかで、これからの生き方が変って来るんではなかろうか。わしも時々気が付くんだが、以前に比べてものごとに億劫になる傾向が強くなったのではないだろうか。わしが1人で籠るというのは、自分では目的を持っていると考えているようだが、ほんとうはそうではなく、ただ単に世間との接触が億劫なだけで、それをごまかすために、いろんな理屈をこね上げているだけかもしれない。

 もし億劫だということで、一日家にいるとしたらそれは単なる老人性鬱の始まりということになり、それでは親父の二の舞だ。かといって積極的に出て行ったりしていたら、心の平穏は保てないだろうな。わしは思うんだが、サークルとか、趣味とかで一緒に遊んだところで、それがいつまでも続くわけではない。わしが94歳まで生きたとしたら、ほとんどみんな先に死んでしまって、誰もいなくなっているだろう。少しの間現実を忘れることができるかもしれないが、わしにとってはそういう関わりこそが、億劫であることが許されるし、心の平穏を乱すもとだと考えている。

 しかし血縁というのはそうではない。女房はわからないが、子供や孫はわしが死ぬ時生きているはずだ。わしの死後、わしを知っている人が生きている、それでこそ死に甲斐があるというものだ。家族との関わりだけは、面倒などと思わず、役に立ってよかった、関わらせてくれて有り難うと感謝しなくてはいかんな。それで心の平穏が乱れる事があっても仕方がないだろう。

雨の日にはいろいろ考えてしまうな。