無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10661日

 今日も朝から掃除を始めようとしたら、女房に日曜日なんだから掃除もやめたらどうかと言われてしまった。わしにとっては土曜も日曜も関係ないので、1日はどの1日でも1年の365分の1でしかない。そう言うと、「生活にメリハリをつけんとボケてしまうよ。」と警告された。そこまでいわれると返す言葉はないが、しゃくに障るので一部屋だけ掃除機をかけて終わりにした。安息日だな。

 曇り空に時々雪が舞う中、ベランダに出て太陽参拝後、神棚の前で祝詞奏上などいつもの行事を早めにすませた。今日はセンター試験2日目だが、大雪の地方もあるようだ。それに比べたら小雪が舞う程度のこの辺りの受験生は恵まれているとも言えるだろうな。運不運は人生につきもので、それらすべて含めて人生といえるんだろう。

 運不運ではないが、人との出合いや別れも同じようなもんだろうな。あれは昭和49年5月の事だった。船乗りをやめようと思って神戸で下船して、三宮から新幹線に乗ったんだが、大きな荷物を抱えて大変だった。今のように宅急便があれば簡単なんだが、当時はそんなものもないので、大荷物を抱えて移動していた。当時22歳で若かったからできたんだろう。岡山で降りて宇野線宇野港まで行って、宇高連絡船に乗り換えなんだが、電車を降りてから連絡船まで結構歩かなくてはならない。歩くというよりみんな走るんだな。わしは大きな荷物を抱えて、よたよた歩いていた。すると後ろから「お持ちしましょうか?」という声が聞こえたような気がした。振り向くと小柄な20歳くらいのかわいい女性が、にっこりと微笑んでいるではないか。そしてわしの下げているカバンの片方を一緒に持って歩いてくれた。まるでドラマの1シーンのようだったな。

 船中では隣の席に座っていろいろ話をしたとおもうんだが、忘れてしまった。ただ、わしがインドで買った、孔雀の羽で作った団扇を御礼にあげたら、たいそう喜んでくれたのを覚えている。高松で降りるんだろうと思っていたら、わしと同じく予讃線に乗るというので、それから2時間程となりの席で話したんだが、その子は中学を出てタオル工場で働いているが、旅行が好きで、いつも一人旅をしている。今度は山陰のほうへ行った帰りだと言っていた。仕事は明日まで休みだと言っていたんだが、これはどういう意味なんだろうと、わしはちょっと考えたな。彼女が降りる駅が近づいた時、手紙を書いてもいいかと聞いて来たので家の住所を教えてあげた。そして降りた反対側のホームに立って去っていくわしの方をずっと見ていたな。

 一方わしは船乗りをやめた後、これから先どんな人生を送るのか、全くあての無い中、手探り状態だったので、女性と付き合うとかいうことは、全く眼中になかった。自分の事だけで精一杯で、人の事を考える余裕はなかったな。一週間程して彼女から近況などを記した葉書がきたが、わしから返事は出さなかった。そしてその後ずっとこのことは忘れていた。しかし、年をとるといろいろな反省とともに、突然思い出してくるんだな。名前も覚えてないが、その時返事くらい出してあげたらよかったんだろうな。もういいおばあちゃんになっていることだろう。幸せな人生を送っていてほしいな。