無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10659日

 わしのおふくろの兄さんは、昭和19年に南洋第6支隊としてニューギニアのホーランジアに上陸したはずだが、その後のことはわからない。サルミ付近で戦死という戦死公報があったということは、人跡未踏のジャングルの中を、病身でサルミまで後退できたということだろうか。パラオで病気のため内地送還が決まっていたのに、部下と交代したということだった。交代して帰った人が、戦後尋ねて来て話をしていったと言っていたから、間違いないんだろう。わしのおふくろの話によると、後で伯母は「帰ってくればよかったのに。」と話していたらしい。みすみす生きるチャンスを逃したことが残念だったんだろう。

 戦後は軍人恩給もなくなり、小さい子供3人を抱えて苦労したようだ。わしのおふくろが3人の甥の世話をして、兄嫁は行商に出て家計を支えたというような話も、おふくろが死ぬ前になって初めて知った。若い頃、お盆でみんなが集まった時に、一日中楽しそうに話している、おふくろや伯母さんの姿からは想像もできなかったが、一緒に苦労したからこそ、あれだけ仲が良かったんだろうな。12〜3年前になるが、3人がニューギニア慰霊団に参加してサルミで慰霊祭を行った。帰国後、親戚一同集まってその報告会があった時に、みんなの話の中で、戦死した伯父は除隊したら商売をしたいと話していたということを聞いたが、戦争さえなければ、陸軍工兵中尉で除隊して予備役に編入され、商売にも励み、在郷軍人会でも活躍したんだろう。

 こんなことを記憶に留めている世代も、おそらくわし等が最後になるんだろう。わしは長男が大学受験で栃木県に行く時、一緒について行ったんだが、飛行機で羽田に着いて、上野駅に向かう途中、2人で靖国神社に参拝した。受験の朝、靖国神社に参拝する人はそんなにいないだろう。それに250万英霊の中にはお前のばあちゃんのお兄さんもいるんだから、よくお願いしておくようにと話をした。息子はたぶん忘れているだろうが、それならそれでいいんだろうな。