無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10653日

 去年の5月から毎日800字前後、何か頭に浮かんだ事を書いているが、毎日必ず書くという事は、わしが毎日行として課している掃除、歩行7000歩、祝詞奏上等に匹敵する存在となりつつあるようだ。わしにとっては、書くという行為は、あやふやな記憶を確定するという効果もあるし、溜め込んでいた記憶を消し去るという効果もあるようだ。頭にランダムに浮かんで来ることは、何のまとまりもなく、次から次へと移り変わっていく夢の中のような状態で、放っておくとすぐに消えてしまうが、一旦記憶の中に埋もれてしまうだけで、ある瞬間に突然浮かんで来ることがある。しかし、浮かんで来た事を一度頭の中で確認し、固定すると再び浮かんでくる事はない。わしにとってはその確認して固定するということが、書くという行為につながるということだ。

 このことがわかったのは、去年の4月以降社会との接触を最低限にして、自分と向き合う生活を始めてからだ。4月はまだブログを書いてなかったので、現れては消えて行く記憶の断片を固定する事もなく、流れのなすがままだった。ところが、5月以降、浮かんで来たことを書き留めるとともに、それに関する情報を記憶の中から取り出すという作業を続けていくうちに、何かが違ってきたんじゃないかと思うようになった。つまり、整理され、すっきりするとともに、そのことが頻繁には浮かんでこなくなったということかな。最初は単に、年をとって記憶力が落ちて来たからかもしれないと考えていたが、いつまででも覚えている事と、そうでない事があるという事実から、どうもそれだけでは説明がつかなくなってきた。書く事とそれによる記憶の変化に、どのような関係があるのか、わしには説明する能力は無いし、また人に説明する必要もない。わしにとってのブログとは、記憶を確認して、固定して、忘れる、そういう役割を果たす、いたって個人的な道具で、MacBookProの右下にある、ゴミ箱の役目を果たしているのかもしれんな。あと10652回書き終えたら、さぞかしすっきりしていることだろう。