無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10648日

 今日の午後1時頃祝詞をあげていて、ちょっと不思議な体験をした。わしの家を建てる時に、地鎮祭出雲大社○○分祠でやっていただいたので、所謂出雲屋敷と呼ばれる家だという事は『あと10672日』に書いた事がある。そして完成後、家で拝んでいただいたので、神棚の中心は出雲大社のご祭神である大国主大神となっている。その横に伊勢神宮でいただいた天照皇大神宮のお札を置いてある。これでいいのかどうかわからないが、25年間この形を続けているし、これからもこの形でいくつもりだ。

 わしはいつも禊祓詞、大祓詞、祖霊拝詞の後に続けて出雲大社祝詞をあげている。今日も禊祓詞、大祓詞、祖霊拝詞の後、出雲大社の祓詞を奏上していると、なんかいつもと違うんじゃないかと感じた。言葉ではうまく言えないが、とにかく楽しいんだな。今まで何百回祝詞を奏上したかわからないが、今日のように楽しいと感じた事は今まで一度もなかった。何が楽しいということではないが、心がうきうきして、思わず微笑んでしまった。このままの状態がいつまでも続いたらどんなにいいだろうと思ったが、謝恩詞、神拝詞、神語と続いて祝詞がおわるとともに消えてしまった。

 思い返してみると、これと同じような経験が今までに一度だけあった。このブログでもどこかに書いたことがあるが、今32歳の長女が幼稚園の頃だったから、27〜8年前のことになる。二男はまだ生まれてなかったので、長女、長男とわしら夫婦が布団を並べて寝ていたんだが、朝になって目覚めたとき、なぜか心がうきうきして、ものすごく楽しかった。何かを思い出して楽しいとか、今日何か楽しい予定があるとかそういうことではなく、ただ楽しい、嬉しい、そういう感覚だった。その時もわしはその感覚を保ちたいと思ったが、すぐに消えてしまって、それ以来二度と現れる事は無かった。

 ひょっとしたら27〜8年ぶりに、今日それが現れたのかもしれない。そう考えると今日一日がなんとなく重要な日に思えてきた。明日からが楽しみだ。