無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10644日

 日本では宗教とは何かと問われたら、別に無くても生きて行けるものという類いの回答が多いんではないのかな。自分の子供の頃を思い出しても、宗教的な規制から、あれをしてはいけない、これをしてはいけないとなどと言われた事は無いし、これを信じろとか、あれを信じろとか強制されたこともない。ただよく言われた事は「誰も見てないと思ってもお天道様はちゃんと見とるよ。」ということだったな。わしの両親も、祖父母も真言宗の檀家だというだけで、とくに信仰しているわけでもなかったし、日本の多くの家庭でも似た様なものだろう。宗教によって道徳心が養われるというより、生活の中でいつのまにか身に付いてきたということではないだろうか。

 わしは今は神道の勉強をしているが、別に見えないものが見えるようになりたいとか、未来を予言したい、というようなことを期待しているのではない。知らない方が幸せなことは世の中にはたくさんある。霊感が強い人もいるようだが、その人はその人なりに大変なんだろう。佐藤愛子の「わたしの遺言」なんかを読むと、こんな世界に関わりたいとは思わんな。何も知らないから崖っぷちでも平気で歩けるが、中途半端に知ってしまうと、一歩も進めなくなるだろう。歩ける準備ができた人だけが知ればいいことだ。

 むかし20歳代の頃、ある教祖の家で、聞かれたことがある。「君は毎朝水をかぶることができるかね。」「はい、できます。」と答えたが自信はなかった。集団でやるならできるだろうが、毎朝ひとりで黙々と水をかぶれるだろうか。これができなければ駄目だと言われた。65になっても今だにできてないから、わしはやはり駄目なんだろうと思うが、出来の悪い者もそれなりに、徐々にでも理解を深めて行けば、歩ける準備が整うことはないにしても、死ぬまでに、一歩でも二歩でも前進できるのではないかと期待はしている。