無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10630日

 前もって決められていた、万博会場の集合場所に行ってみると、もう何人かが集まっていた。全員が揃うのを待って、バスで神戸商船大学まで帰ったと記憶しているが、ここらあたりまでくると、記憶も定かではなくなる。その晩の宿泊も学校の練習船に泊まったのか、進徳丸に泊まったのか、覚えていない。神戸にはわしの学校の大先輩であり、親父の親友だったYさんという人が住んでいた。当時はJという大手海運会社の神戸支店長をしていた。Yさんは昭和13年か14年に卒業して、大連汽船に就職した。大東亜戦争でも、全期間輸送船に乗って物資輸送に従事したが、生き残った強運の人でもある。ちなみにこの年代のクラスは半数近くが戦死している。

 戦時中に伯父(親父の兄)が、小樽でこのYさんと出会ったことがあったらしい。伯父は徴用されて、陸軍で気象観測をしていたんだが、ある日、町なかで支那服を着た男とすれ違った。伯父はすぐに弟の友達だと気が付いて、Y君じゃないのかと声をかけた。声をかけられたYさんもさぞやびっくりしただろう。話を聞くと、昨夜一晩中、米軍の潜水艦に追いかけられて、逃げ回っていたので、一睡もしてないんだということだったそうだ。親父は朝鮮の営林署に勤めて、咸興に住んでいた時、ひょっとしたらYの船が入港していて、Yに会えるんじゃないかと、よく埠頭を歩いたと話していたな。

 わしはこの日の夕方、友人のN君と一緒に、そのYさんと会って、晩飯をごちそうしてもらった。名前は覚えてないが、焼き鳥がうまいという店に連れていって、飲ましてくれた。何を話したかは覚えてないが、帰り際に大量の焼き鳥を注文して、「船長さんにお土産だといって持って行ってあげなさい。」と言ってわしに持たしてくれた。そして、タクシーで帰りなさいとタクシー券までくれた。わしとN君は、さすが支店長になるとすごいなと妙に感心したものだ。ただ、お土産の焼き鳥は、みんなが食べてしまって、船長の口には入らなかったな。しかし考えてみたら、まだN君17歳、わし18歳だったんだな。