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無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10628日

 昭和45年の万博の年、わしが2回目に見に行ったのは、夏休みの終わり頃だったから、8月の後半だろうと思われる。この夏休みはいろんな事があった。おふくろが子宮筋腫の手術で国立病院に4週間程入院した。定年退職した、親父の朝鮮時代の先輩が遊びに来た。同級生のH君が相撲の県大会に参加するためにわしの家に泊まり、大会で優勝した。これらが同時におこったので、わしも家でのんびりしている暇はなかった。

 わしはずっと学生寮に住んでいたので、おふくろの病気の事は、夏休みに家に帰って初めて知った。病院に見舞いに行った時は、既に手術は終わっていたが、詳しい話は何もしてくれなかった。わしの親がそうだっただけかもしれんが、細々した事はあまり子供に話さなかったな。とにかく手術は無事終わって、すぐに良くなるから心配はいらないということだけ教えてくれた。

 おふくろの入院中に、仙台に住んでいた、朝鮮時代の先輩の○○さんが、退職後の旅行で、親父に会いに来たことがあった。親父がすき焼きを作り、3人で晩飯を食べて酒をのんだ。翌日、親父は仕事があるというので、船で広島に行く前に、わしが城山に案内する事になった。城内を案内した後、公園の桜の木の下にあった、コンクリート製の奇麗なベンチに腰をかけて、長い時間話しをした。それから50年たった今でも、そのベンチは同じ桜の木の下にある。そしてそのベンチを見る度に○○さんが懐かしく、またさびしく思い出される。

 親父が亡くなる前だったが、この話題になった時、親父が「○○さんには悪い事をしたなあ。あの時、仕事は休む事はできたんだが。わしが案内してあげたらよかった。」と話したことがあった。親父にとって○○さんがどんな存在だったのかよく知らないが、おそらく上司だったんだろう。おふくろが入院しているということもあったんだろうが、もう少し歓待してあげても良かったんじゃないかとわしも思っていた。親父もずっと思っていたんだな。

 ○○さんからの礼状に、息子さんには大変お世話になりました。話ができて楽しかったというようなことが書かれてあった。しかし、本当は親父ともっと話したかったんだろうな。それから数年後に○○さんは亡くなられた。

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