無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10610日

 あと10772日に書いた通り、わしは若いとき、松根東洋城が作った「渋柿」という結社の句会に参加していた。そして結社の俳句雑誌「渋柿」という本の編集発行人だったB先生の家に出入りして、添削してもらっていた。先生は80過ぎで、家は高田馬場駅の近くで、『日本死ね』などという汚い言葉を誉めたたえて有名なった、あの「ゆーきゃん」の前の細い道を歩いて10分位のところにあった。このB先生はなかなか豪快な方で、俳句の添削でもこうしろああしろとは言わずに、わしらみたいな素人の意見もよく聞いてくれて、じゃあこうしてみるか、これでどうだろうと、一緒に考えてくれた。

 B先生は謡もやっていたので、ときどきわしも教えてもらっていた。「あんた、つやのあるええ声しとんじゃが、しっかり腹から声を出さんといかんぞ。」とよく言われたが、先生のような声はどうやっても出なかったな。先生は酒が好きで、飲み過ぎて体を壊したことがあり、奥さんから止められていた。しかし、ある夏の午後お宅に伺うと、ちょうど奥さんがお留守で、先生一人だった。すると「ビール飲むか。」とビールを持って来て薦められた。この時に松根東洋城と出合った時のことや、旧制中学のこと、東京高等商業学校、銀行員時代のことなどいろいろ語ってくれた。

 その頃だった。東京の目黒雅叙園で渋柿全国大会をやることになった。選者とか主立った人達が全国から集まってくる大きな大会だった。わしも初心者ではあるが、句会には参加するつもりだったので、そのように申し込みをすると、B先生に、句会終了後懇親会があるので、それに参加して、全員の集合写真を撮ってくれと言われた。雅叙園には渋柿会員である日本画家磯部草丘の天井画や襖絵があり、これを見るだけでも価値があるし、参加費は出してあげるから、おいしいものを食べて行きなさいと言われて、引き受けることにした。幼稚園の入園卒園などの集合写真はアルバイトで撮っていたので、大丈夫だろうと思っていたんだが、まさか冷汗三斗の思いをすることになろうとは、この時は考えもしなかったな。

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