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無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10602日

 毎日他人と関わらずに過ごしていると、気が楽なのは事実だ。わしはもともと人と話したり、一緒に何かをやるのはあまり得意な方ではなかったので、若い時から、1人でいることにそれほど苦痛は感じなかった。若い時ような焦りもないし、こうあるべきだなどと自分を追い込む事も無い。いたって平穏な日々が続いているんだが、これで良いのかなと思う事もある。ただ自由になる金は少ないので、そこら当たりはちょっと厳しい面もあるが、出歩かなければ金を使う事もない。ただ、近いうちに参拝旅に出たいと思っているので、久し振りの大きな出費になりそうだ。

 わしは60過ぎて、青春18切符で旅に出るようになったが、旅行中、必要な事以外、ほとんど人と話す事は無い。娘の嫁ぎ先の両親に、何時間も電車に乗って何をしているのか聞かれたことがあった。ぼーっと景色を眺めているだけだと答えると、「それだけだと退屈しませんか。」と言うので、電車に乗るのは単なる移動手段ではないので、景色を眺めていることは決して退屈ではない、というようなことを答えといたんだが、理解はしてもらえなかったようだ。

 わしは1人でいることが好きで、1人でいることに何の抵抗も無いと信じて来た。ところが、確か産経新聞だったと思うが、あの蛭子能収さんが、最初の奥さんを亡くしたときのことを書いていた。『自分は1人が好きで、1人になっても大丈夫だと自他ともに認めていた。しかし、そう言えたのは、本当は自分は1人ではなく、女房がいたからだと気が付いた。実際に女房を亡くしてしまうと、襲って来る孤独感に耐えられなかった。』ざっとこんな感じだったかな。これを読んで、偉そうに言っても、わしも女房の存在に甘えているところがあるんじゃないかと、ちょっと思い当たることもあった。動けるうちにたまには外に出て、人と交わっておくことも必要なのかもしれんな。人と交われば、平穏な心を乱されることもあるだろうが、それも刺激になり、脳の活性化に役立つこともあるのかな。

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