無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10601日

 娘と孫が、ショッピングモールに用事があって出て来るというので、わしらも出かける事にした。現地で合流して5人で昼食を食べたんだが、子供の成長の早さには驚かされる。今年の4月から幼稚園に行くので、それに慣れるために設けられた、週一回月曜日だけのクラスに4〜5回通っただけで、すっかりお姉ちゃんになっていた。わしなんかのように、既に成長が止まり、片手でぶら下がっただけで肋骨が痛くなったり、腰痛でボウリングもできなくなったり、若いときできていたことが、どんどん出来なくなってきているじじいから見ると、うらやましい限りだな。

 わしは若い時から、ボウリングは決してうまくはないんだが、仲間内の大会ではいつも上位に食い込んでいた。フォームもでたらめで、まっすぐ投げるだけしかできないが、それだけで悪い時でも120〜130点で140〜160点くらいはでることもあった。子供等と行っても今まで一度も負けたことはなかった。ボウリングだけは子供には負けない自信があったんだが、この間、長男家族と一緒に行って、その自信は打ち砕かれた。通常腰が痛いので、腰高で投げざるを得ない。これではコースが安定しないので、100点もでなかった。65にして初めて子供に負けたことは、ちょっと悔しいが、老化と思って諦めるしか無いんだろうな。

 昭和48年4月〜6月、航海訓練所練習船青雲丸の実習航海で、国内を回っていたとき、同じグループだった9人は、晴海沖〜小樽〜境港〜長崎〜博多〜広島〜神戸と入港する度に、全員で揃ってボウリング大会をやった。みんなで金を出し合って景品を用意して、結構盛り上がっていたが、わしはいつも2位だった。1人200アップするうまい奴がいて、優勝はいつもそのH君だった。広島でやったときにわしは人生最高点198点をだしたんだが、それでも勝てなかった。H君は成績番付でも横綱、ボウリング番付でも横綱だったが、悪い事に船酔い番付でも堂々たる東の横綱で、航海の度に青い顔をしていた。それで結局船を諦めて、陸の会社に就職したな。