読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10600日

 あと10600日になってしまったが、果たして何歳まで命が続くのか楽しみだ。生きると言っても寝たきりになって生きるのでは嬉しくはない。自分の事は自分でできるという状態で生きることが、有意義な人生の基本だと考えている。わしのおふくろは83歳の時、肺がんで死を宣告されて精神的にまいってしまったが、最後まで、血液検査の結果はわしよりよかった。もう少し積極的に生きようとすれば、また違ったのかもしれない。しかし当時はわしも含め、周りのみんなが動転してしまって、適切な援助をすることができなかった。死を前にした人に、いったい何を語れば良かったのか、今だにわからない。直らない事はわかっているんだから直るとも言えない。本人がしんどいと言っているのに、検査結果は異常なしだから問題ないとも言えない。死んだら神の国に行けるなどと、行った事も無いのに無責任な事は言えない。来年の今頃はいないと決まっている人に何を語りかけたらいいのか、自分に正直であればあるほど悩み多い日々だった。

 わしはまだ時間があると、自分で勝手に思っているだけで、本当はそんなに残されてないのかもしれない。とりあえず、見渡せる範囲に死の影は見えないというだけだ。そこの角を曲がったら、それが突然現れるかもしれない。おふくろにはそれが突然現れたが、親父は最後まで死ぬとは思っていなかったと思う。わしは女房と一緒に、2人を最期まで看続けたんだが、生に執着しながらあっけなく死んで行ったおふくろと、その後10年の期間を生きながら、あまり楽しめなかった親父と、2人の死に様をみて、死ぬ事もたいへんだと改めて感じた。おふくろの最期の瞬間には立ち会えなかったが、親父の最期の瞬間には立ち会えた。親父は満足して、理解して死んで行ったと信じている。

 既に親は見送り、いよいよ次はわしの順番になっているので、自分の死に様をいろいろ描いてはいるが、こればかりは思う通りにならない。1人で生活を完結できるなら、10600日も無駄にはならないだろう。しかし、子供に迷惑をかけるようなら、ほどほどに死んでやるのが子供のためだろう。幾ら考えても何の結論もでないことはわかっている。つべこべ言わず『今日を生きる』気持ちで、死ぬまでその日その日を完結させ、積み上げていくしかないんだろうな。

広告を非表示にする