無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10596日

 わしの女房の父親は、土木関係の仕事をしていて、まっすぐで豪快な人だったが、家庭の事はあまり構わなかったようだ。仕事に命をかけるというタイプで、人生に対する立ち位置としては、わしとは正反対の人だった。かえってそれが良かったのか、ずいぶんかわいがってもらった。25年も前になるが、この家ができるまで半年ほど、女房の実家の裏にあった、小さな家に住まわせてもらったことがある。4月から10月までだったが、そんなに長い期間近くで過ごしたのは、これが最初で最後となった。

 女房の父親はいつも仕事で忙しく、家で晩ご飯を食べる事もほとんど無かったと聞いていたが、わしらが一緒に住んでいた期間は、ほとんど毎日6時過ぎには帰って来て、わしらの住んでいる家の方に来て食べるようになった。仕事柄、来客が多かったので、麒麟麦酒の大瓶がケースで置いてあり、夏になるとそのビールを2人で飲むようになった。毎日5〜6本飲んでいたら8月の終わり頃には底をついて飯の度に買いに走ったものだ。

 父親は橋梁の専門家で、戦後行われた県内の大きな土木工事には、そのほとんどに関わって来た事や、土木工事はスケールが大きく、いわゆる地図に残る仕事で、やりがいがあるということ、また、YトンネルやKダム、Iダム、国道○○号線拡幅など、有名な工事の裏話など面白く聞かせてもらった。一緒に聞いていた女房は、今まであまり親子で話したことがなかったので、初めて聞く話ばかりだったらしい。そして親との、こんなににぎやかな夕食というのも、経験がなかったようだった。

 それから8年後、仕事で近くの島に住んでいた父親が、島の病院から救急車で運ばれてきた。医師の最初に診断では、3週間ほどすれば車いすには乗れるようになるだろうということだったが、どんどん悪くなるばかりだった。そんな時、一度だけ目を覚ましたことがあった。本人はこのまま良くなると思ったようだ。わしらも少し話をしたが、呼吸もしんどくはないから、このままでいたいと頻りに訴えていた。しかし、医者はもう一度眠らして治療を継続する方針だったし、わしらも良くなるという医者の言葉を信じるしかなかった。面会時間が終わり、わしらがベッドから離れる時、今まで見た事の無い、恐怖の表情をした。わしは今度目が覚めたら元気になっていますよと声をかけて、その場を離れた。しかし、これが最後の別れとなってしまった。

 その後2週間、人工呼吸器で生きながらえたが、目を覚ます事はなかった。女房の父親は以前から、寝たきりにはなりたくないと話していた。なぜあのときにわしは眠らせることに同意したのか、なぜ意識をもったまま死なせてあげなかったのか、いまでも後悔している。あの豪快な人生を生きた最後が、人工呼吸器につながれて朽ちて行くのは可哀相だった。わしは付き添いで一晩泊まった時、申し訳ありませんと謝り、一緒に住んで楽しかったことを語りかけた。伝わっただろうか。