無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10591日

 昨夜、佐藤愛子著『私の遺言』四章「神界から来た人」を読み返してみた。神界から来た人即ち相曾誠治氏に関する記述がメインになっている。内容は『サニワと大祓の詞神髄』『言霊と太陽信仰の神髄』に書かれてある事と重複していることが多いが、佐藤愛子氏が、実際に相曾誠治氏と会って感じた事や相曾誠治氏が行った事、会話の内容等、講演集には出て来ない、相曾誠治氏の生の姿が表現されていて、非常に参考になった。

 文章の中に、「困惑」という詞が時々出て来ている。神界の事や、神様のことなど荒唐無稽だといえば、確かにそう感じる人も多いだろう。佐藤愛子氏は作家だから、1の事を10に膨らまして、面白く書いているのではないかと思う人もいるかもしれないが、少なくとも、この章の相曾誠治氏に関する記述に関しては、嘘や脚色は無いと思っている。困惑するが否定はしない。知らない事を否定しない。様々な怪異現象に悩まされた佐藤愛子氏の、相曾誠治氏に対するスタンスは、こういうことではなかったのだろうか。

 わしも、わからないことはわからないままで放っておくことにしている。相曾誠治氏の本を読んでも、ほとんどわからない。もちろん日本語だから、書いてある事はわかるが、それが本当かどうかなどということは、自分が同じ体験をしない限りわかりようがないことだ。それは古事記も同じだ。100回読んだ所で、おそらく何もわからないだろう。異境備忘録も同じだ。これは読むのも骨が折れるが、苦労して読んでもわからない。

 それでも読み続けるというのは、いつか理解できるようになるんじゃないかと、期待もしているということで、佐藤愛子氏のように本人に話を聞けない以上、文章を通して語りかけてくれるのをひたすら待つ以外に、凡人のわしなんかが取るべき方法は無いんじゃなかろうか。こういう作業は何の生産性もないし、わかったからどうなるというものでもない。しかし、わしにはこれが、人として生まれた以上、目指すべき最終目標のように思えてならない。

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