無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10590日

 大人でも集団になれば考えられない行動をすることがあるが、16〜8歳の子供の世界では尚更のことだろう。わしが島の全寮制の学校に入ったのは昭和43年だった。I港からホンポン船で2時間かけて、2次試験のために初めて島にわたったが、霧雨の降る中、ひとりで心細かった。島には小さな桟橋が一つしかなくて、人影もまばらだった。今のように宿をインターネットで予約できるわけもなく、上陸して、さあどうしようかと考えていたら、他の受験生を迎えに来ていた上級生が声をかけてくれて、宿を世話してくれた。これはまさに地獄に仏だったな。その人の顔は今でも覚えている。

 入学式にはおふくろがきたんだが、式には呆れていたな。3年生のヤジや口笛がうるさく、まともな学校じゃなかった。おふくろはこのままわしを連れて帰ろうかとまで考えたらしい。当時は変則的で、3年生だけが高校生で生徒、1年生2年生は高等専門学校で学生ということになっていた。したがって3年生は落第即退学となるので人数も少なかった。いってみれば僻もあったんだろう。黙れと言わない学校もおかしいが、3年生には、寮の管理に関して、学校側も弱みがあったようなことも聞いた事がある。

 寮では直截的な暴力は無かった。軍隊じゃないんだから当たり前なんだが、わしらも多少覚悟はしていただけにちょっと拍子抜けした面もあった。わしら1年生は最後のほうに汚い風呂にはいるんだが、たまに3年生がはいっていることがあった。わしではないが、同級生は君が代の2番を歌わされたことがあったらしい。何を歌ったのかしらないが、歌うまで風呂からあがらしてもらえなかったそうだ。また、洗濯機使用禁止とかいわれて、冬の吹きっさらしの中でも、裸足で洗濯板で洗濯したものだ。娯楽室入室禁止でテレビも見れなかった。おかげでロバートケネディーが暗殺されたことも知らなかった。夜中に叩き起こされて廊下に並ばされたりしたこともあった。

 他にもいろいろあった。上級生といったところで、高校2、3年生なんだが、個人的にはいい人が多かった。暴力事件で退学になった人もいたが、退寮即退学という密閉された集団生活が、感覚を狂わせるんだろう。この群集心理による弱いものいじめは、したほうもされたほうもどちらも嫌な思い出が残るだけだ。中学校のいじめなんかも、同じ心理なんだろう。船乗りになりたいという強い意志があったからできたんで、今あの生活をもう一度やれと言われてもお断りだな。