無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10589日

 子供は清い心を持っているなどといわれるが、それも無いとはいわんが、無知或は倫理観の欠如による残酷さというものも、合わせ持っている。決して大人をダウンサイジングしたものではない。そういう子供を、正しい方向に導き、型にはめて行くのが本当の教育だと考えている。個性を大事にというが、それはできあがってからのことで、最近の親が主張する所の子供の個性とは、わがままにすぎないと思っている。本当の教育者が必要と思えば体罰もあっていいいと思う。

 しかし、わし自身は自分の子供を叱ったことはあるが、叩いたことはない。なぜなら、わしには子供に体罰をふるうだけの自信が無かった。どんなひどい事をしたとしても、無力な子供を叩くことは、かわいそうでできなかった。子供を叩くとい言う事は、この子を良い方向へ導くためだという、自信が無ければできないはずだ。そしてそれができるのが本当の教育者というものだろう。残念ながらそういう人に出会ったことがない。

 生意気だから、認めないから、下校途中で店に寄ったから、こんなことで制服のボタンが全部とれてしまうほど複数の教師が取り囲んで小突き回し、黒板に落書きをしたといって廊下で十数発殴られる、これが教育的体罰といえるのかな。しかも命令役と実行役、見張り役と別れていたというから、成長過程でまともな教育を受けてこなかった連中が、職業として教員となっているということだ。わしの二男が目を付けられてしつこくやられたんだが、二男はわしと違って、人よりも体が小さくて、おとなしい真面目な性格だった。絶対反抗しないことがわかっているから、むこうもやりやすかったんだろう。

 さすがに、わしも異常事態に気が付いて、とにかくうちの子供に手をかけるなと校長に通達した。そして関係者全員と話し合いを持った。中にふてくされたような奴もいたが、全員反省の弁を述べて謝罪もしたので、わしも穏便に済ませた。これは普通の公立中学校であったことだが、幾らひどいと言ってもこんな教師達がいたことが今でも信じられないくらいだ。この中の1人は次の学校で暴力事件を起こし、懲戒処分されていたから、暴力体質が染み付いていたんだろう。

 世の中には親子3代教師の教育一家とか存在するようだが、わしには信じられない。自信を持って教育者ですと言えるその自信はどこからくるのか。中学生に数学や国語や社会を教えるだけなら誰でもできる。しかしそれは単なる教員であって教育者とは別物だと思うがな。わしには教育を仕事にすることなど、恐ろしくてとても考えられなかった。