無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10585日

 いよいよ今日から無職2年目にはいった。人生の第4コーナを回ったあたりだろうと、勝手に考えているが、寿命だけはわからない。この一年、これをやったとか、あれをやったとか、そういう達成感は何もない。ただ淡々と一日一日を積み上げて来ただけだ。これからもこんな生活が続いて行くんだろう。役に立つ事は何もないが、せめて邪魔をしないという、この消極的な生き方が許されるという事が、今のわしにとっては最高の幸せだともいえる。

 毎朝の掃除雑巾がけ、太陽参拝、祝詞奏上、古事記神代巻朗読(今49回目)、7000歩の歩行、これだけはほぼ毎日欠かさずにやっている。歩行に関しては2000〜5000歩くらいに減らしているが、階段の上り下りを追加している。これらの繰り返しが生活のリズムになっているといえばいえるかもしれない。人と会って話すということがほとんどないので、言ってみれば究極の自己満足の世界といえるかもしれない。

 達成感というのはいたって個人的なもので、同じ事をしても、感じる人もいれば感じない人もいる。達成感とは関係なく物事はあるようにある。わしの達成感如きに影響される何ものも、この世の中に存在しない。やりがいとか、達成感とかいうものの持つ高揚感は、それが醒めたあとで振り返ってみると、マッチの燃えかすのようなものだ。振り返ってみると、その燃えかすが延々と続いているのが見える様な気がする。

 しかし、わしは今の生活に決して満足しているわけではない。掃除するのもしんどい事もあるし、祝詞を奏上しても身が入らない事もある。以前やったように、時々家族で麻雀をするのもいいかなと考えたり、幸せだと感ずる一方で、ただ淡々と暮らしてゆくことを重荷に感ずることもある。死んだ時にすべては繫がって完結するんだろうが、その場その場では錯綜した心の葛藤が渦巻いている。こんなことを語り合える同好の士がいれば一晩でも二晩でも語り合えるんだが、これは無理な相談だ。

 昨日も明日も無い、その日あったことをすべて認め、そして淡々と今日を生きるしかないんだろうな。