無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10581日

 今日が最後の認定日ということで、朝8時半に家を出てハローワークに向かった。ハローワーク通いが始まったのは、去年の7月からで、3ヶ月の待機期間の後、11月から失業保険の給付が始まった。仕事を探している訳でもないので、月2回の職業相談も何の意味も無いとはいえ、いかなくては貰えない。最初の頃はなんともなかったが、これがだんだんと苦痛になってくる。去年の8月10日の説明会の頃は、月に2日出てくるだけで失業保険が貰えるということで、楽勝感が漂っていた。どうせ時間はあるんだから、歩いても15分で、散歩に丁度いいだろうと軽く考えていた。

 しかし実際に始めて見ると、これがなかなか大変だという事がわかってきた。まず認定日には必ず行かなければならないということだが、月一回だから何の問題もないだろうと考えていた。現に8月の説明会で、認定日を忘れて、来ない人が少なからずいるので、注意してくださいという話を聞いた時も、そんな大事な日をわすれることなんかないだろうと笑って聞いていたのを覚えている。しかし、わしは1月の旅行日程を決めるとき、認定日のことをすっかり忘れて、1ヶ月無駄にしてしまった。

 もう一つは気持ちの問題だ。65歳でハローワークに行く人はそんなにいないだろうから、ほぼ最年長と言えるんじゃないかな。そんな人間が仕事を探す気もないのに、ハローワークに行って、形だけパソコン画面を見て、職業相談をして、判をついてもらうという、一連の行動を何ヶ月も続けるいうことは、言ってみれば本当の求職者や、ハローワークで働いている若い人達の邪魔をしているんじゃないかと思うようになった。雇用保険にはいっていたんだから、貰うのは当然の権利だといえば、そのとおりなんだが、だんだんと引け目を感じるようになっていった。

 そんなことを言っても、生活があるのでハローワーク通いを途中でやめるわけにもいかない。今日計算してみたら総額で約54万5千円になっていたから、かなりな額だ。いろいろ考えながらも、今日の最終の認定日を無事終えてほっとしている。おそらく二度とハローワークのお世話になることはないだろう。良い経験をさせてもらったのかな。