無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10576日

 有り難い事に、わしは若い頃から視力は良かったので、見る事に関してはなんの不自由も感じた事はなかった。だから、近視で遠くが見えにくいとか、乱視で歪んで見えるとかいうのがどんな状態なのか、全く想像できなかった。40歳までは、5cmから無限大まですべてにピントがあっていたんだから、今から考えるとそれは驚異的なことだったんだな。40歳くらいの時に、なんかで一度眼科にかかったことがあった。その時にいろいろ検査をした後、診察をした院長が、どこも異常はないと伝えてから、自分は長年眼科医をやっているが、これほど完璧な眼はみたことがないと言った。

 それほど完璧だったんだろうが、それだからこそと言った方がいいのか、それから20数年の間の眼の老化は、人以上のものだった。近視の人なら早くから眼鏡をかけているので、抵抗はないだろうが、40半ばで眼鏡をかける事は、精神的にも、物理的にも抵抗があった。さらに細かい仕事ができなくなったし、活字を見るのが億劫になった。いくら眼鏡をかけて調節しても、以前見ていた世界とはやっぱり違う。どっかで読んだ事があるが、一生通して見るならば、人間は若い時から、ちょっと近視くらいがいちばん良いということらしい。

 なまじっか完璧な眼を持っていたので、そのぶん眼の老化が一番堪える。今でも遠くは解像度も高く、はっきりと見えるが、近くはさっぱりで、その落差には今でも悩まされる。遠近両用の眼鏡をかけはじめたのは、15年前、出張で東京に行ったとき、地下鉄の路線図を見て料金を調べて、財布から金を出そうとした時、硬貨がぼやけて見えなかったからだ。65歳になれば、体のあちこちにガタが来て、若い時のように動けない、膝が痛い、腰が痛い等いろいろあるが、神様に1つだけ若いときの状態に戻してやると言われたら、わしなら迷わず眼を戻して下さいと頼むだろうな。

 5〜6年前に飛蚊症のような症状があらわれたので、眼科にかかったんだが、診察した医師は、「これは単なる老化現象だから、治療の対象外ですね。急に増える様な事があれば、また来て下さい。」と言っとったな。パソコンやスマホもほどほどにして、老眼鏡で補正しながら、だましだましやっていくしかないんだろう。