無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10563日

 わしの家族は昭和26年11月に今の土地を購入して、移り住んで来たので、居住歴はわしの年齢と同じで、今年で66年になる。したがって、戦前のこの辺りの事は、親父も直接には知らなかったが、幸いこの界隈で生まれて育った人も、数少ないながらもいたので、その人達からいろいろ面白い話を聞いて、わしにも話してくれた。元々この辺りは練兵場や旧制中学、女学校、高等商業学校などが集中していて、周辺には田んぼが広がっていて、それほど人は住んでなかったようだ。

 近所には、ここ30年ほどで有名になった、種田山頭火終焉の地がある。この山頭火についても、直接知っているGさんという人がいて、酒の席なんかで話を聞かせてもらったようだ。話によると、最近では旅とか、放浪とか、もてはやされて、奇麗に表現されているが、住民にとっては単なる酒好きの、だらしない乞食坊主だった。酒さえ持って行けば、何でも書いてくれたが、そんな何の値打ちもないものを、頼む人は誰もいなかった。しかしそのあとでGさんは、こんなに有名になるんなら、酒を飲まして、色紙でも短冊でも書いてもらっとけばよかったと、しきりに残念がっていたらしい。確かに今持っていたらそれなりに価値があるんだろう。

 しかし、わしは不思議に思うんだが、貧しいあの時代、山頭火のような人を長期間泊めて、世話をする人達がいたということを、どのように考えたらいいんだろう。その多くは俳句をやっている、地方の素封家なんだろうが、だからと言って、金があればできるということではない。戦前と比べると、金持ちの数は今のほうが多いはずだが、乞食坊主を家に泊めて、衣食の面倒をみる家庭がどれほどあるだろうか。わしはそこらあたりに、GHQによって暗黒の時代とされてしまった、戦前の日本社会が持つ、懐の深さを感じずにはいられない。たまには虚心坦懐に、戦前の日本のいい面を見直しをしてみることも、必要じゃなかろうかな。

 

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