無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10556日

 昭和48年10月に卒業後、家で1ヶ月試験勉強をして、甲種1等機関士と機関長の筆記試験を受けるために広島に渡った。試験期間は5日間だったが、無謀にも、前もって宿もとらないで出かけて行ったように記憶している。友人もたくさん来るので、なんとかなるだろうと気にもかけていなかった。この時、当時花形だった水中翼船に初めて乗ったが、思った以上のピッチの早い揺れで、音戸のあたりで船酔いしてしまった。これから船乗りの国家試験を受けにいくのに、船酔いするとは縁起でもないと、なんか嫌な予感がしたな。

 海運局の前で集合して話を聞いた後、明日からの試験に備えて宿へ散らばるんだが、さあどうしようかと思案していたら、Y君が1人増えても大丈夫だからと誘ってくれた。ついていくと、そこは宇品港近くのラブホテル街にある木賃宿で、総勢8人が3つの6畳間に泊まる事になった。部屋は古く、汚かったが、2食付きでとにかく安かった。部屋に入ってテレビをつけたら、ちょうど「サインはV」をやっていたな。今から思えば、この木賃宿で過ごした数日が、同じ目的を持った気の合った者同士で、何のわだかまりも無く和気あいあいと過ごした、青春の最後の日々だったといえるのかもしれんな。ただ、隣の連れ込み旅館から、時々聞こえて来る喘ぎ声には参った。

 翌日から2日間続いた甲種一等機関士の試験が終わり、わしは結構手応えがあったし、もう1人、Y君も自信があったようだったが、残り6人は、不合格間違いないと言って、機関長は受けずに、さっさと家に帰ってしまった。にぎやかだった宿も、わしとY君だけになって、急に火が消えたように静かになってしまった。人が減って行くというのはいやなもんだ。さて、わしはこの時、甲種1等機関士は合格して採用となり、11月24日に名古屋港から乗船することになった。落ちた6人は来年2月の試験に再挑戦することになった。

 たったこれだけのことだが、この頃までは時間がゆっくり、穏やかに流れていた。しかしその後、押し寄せて来た奔流に、なす術も無く流されていったその後のわし自身の生き様を考えてみる時、それは無知故に、そう感じていただけなのかもしれないが、実に幸せな事で、もはやその頃の時間の流れを懐かしんでも、残念ながらその欠片さえも感ずることができなくなってしまったということに、気づかざるを得ない。他の7人はどうだったんだろうな。