無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10552日

 昨日で2年目にはいったことを書いたが、1年経とうが2年経とうが過ぎた事は忘れるに限る。重荷はできるだけ勘弁してもらって、あの世への旅路は身軽に行きたいものだ。この一年、振り返らない、反省しない、溜め込まない、吟味しない、忘れる、ということを心がけてきた。特にわしの場合、かっとしやすい性格だったので、以前は人との関わりにおいて、後から反省する事が多かったが、この一年わしは怒る事をやめたし、人ともほとんど関わらなくなったので、わし自身が嫌な思いをすることは無くなった。

 忘れるということもなかなか難しいことで、記憶の片隅にあるものが、突然浮かび上がってくることがある。その時にそれを取り上げて、記憶に再度インプットし直すことをしたら、その記憶は整理されて確定してしまうような気がする。忘れたい事は、浮かんで来ても相手にせず、放置しておくに限る。しかし、あまり忘れてしまうと、自分でも痴ほうが進んでいるのではないかと、多少不安になる事もあるので、このブログを書くということは、そうではないということを自分に証明するための、一つの手段になっているといえるのかもしれない。

 年をとってよかったと言えることは、先の事を考えなくてもよくなったということだろう。子供も一人前になって、わしの責任は果たしたし、あとは自分で考えてやっていけばいい。女房は子供や子供の嫁等にもあてにされているし、仕事もしているからいてもらわなければ困るが、一日家にいて何をしているのかわからない様な、わしなんかがいようがいまいが、家族にはほとんど影響がなくなった。これがさびしいと思う男が多いようだが、わしにとっては、この存在感の無さこそ、長年求めてやまなかったものだ。

 そうはいっても、やはり体力の衰えだけは嫌になるな。今の精神状態で20代の体力があれば、あと10552日それは楽しく人生を送る事ができるような気もするが、実際そうなると、それはそれで、いつまでも今生にしがみついて、見苦しい最後になるのかもしれんな。まあ頭も体も弱って、ほどほどに死んでいくのが、家族のため、社会のためになるんだろうな。