無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10539日

 一昨日の晩から、女房の胃痛が始まり、昨日の夜まで続いた。女房の胃痛は若いときからで、結婚したときはすでに胃痛持ちだった。今まで何回も病院で検査もしてきて、結局胃炎だとかいわれているが、根本的原因はわからずじまいだ。ピロリ菌除去とかもやったが、さっぱり効果はなかった。逆にわしは胃は丈夫で、胃が痛いという感覚がわからないので、残念ながら胃痛の苦しさを共有できない。それで時々思いやりがないようにいわれるが、そういわれてもなあ、というのが実感だ。

 女房の父親は78歳で亡くなっていて、それほど長生きの家系でもないので、女房より8歳年長とはいえ、わしのほうが長生きするんじゃないかと言われている。昨日も晩飯のときにその話になって、わしが予定通り94歳まで生きたとしたら、おそらく、わしより10〜15歳位若い年代から上の人達の葬式に行く事になるだろうということになった。そうなるとわしが死ぬときは、子供や孫だけで、他に参列者はいなくなってしまうんだろうな。それならそれでいいんだが、間違っても、子供より長生きする事だけは勘弁してほしいものだ。

 おふくろは、84歳で死ぬ時に、葬式にあまり人が来てくれないんじゃないかと、心配していたが、女学校時代の友達など、たくさんの人が来てくれた。それから10年経ち、親父の葬式のときは同級生は1人もいなかった。94まで生きたら、さすがに他の同級生はみんな亡くなっているんだろう。死ぬ前に親父に今何を一番やってみたいかと聞いたら、若い時みたいに、友達と北京町を飲み歩きたいと言っていた。楽しかったんだろうが、当時の友達は既に誰もいなかった。おふくろは死ぬ前に、わしら兄弟が「かあちゃん、かあちゃん」と呼びながら足下にまとわりついてきたのが懐かしくてたまらない。できることならあの頃にかえりたいと話していた。

 死ぬ前になると、過去の事が懐かしく思い出されるんだろうが、わしはその日が来るまでは、過ぎ去ったことなんか忘れて生きたいと願っている。若い時には、先の事ばかり考えていて、過去の事を考えるということはほとんどなかった。年をとってくると、若いときと同じとはいかないだろうが、ずっと先の事はともかく、今生きているという事を意識しながら、せめてちょっと先のことを考えて生きたいものだ。