無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10534日

 去年の今頃は、それまでに経験した事の無い、特殊な経験をしていると思っていたはずだが、1年経ってみると、特殊でも何でも無い、それが生活の一部になってしまった。去年のあの興奮はどこへいってしまったんだろう。仕事をやめて一日中家にいても、何とか飯だけは食えるという、憧れの境遇をやっと手に入れることができたと喜んでいたのも、遠い昔のような気がする。今では、起床、朝食、掃除、大陽拝、祝詞奏上、時々論語、晩飯の下ごしらえ、昼食、散歩、時々昼寝、晩飯支度、晩飯、株他、古事記神代巻音読、就寝、これを生活の一部として、毎日淡々と繰り返している。

 去年の今頃は、女房や子供等にも、こんな生活はすぐに飽きるだろうと言われていた。以前、新聞に、たしか「うちの亭主はエリート船乗り」或は「うちの亭主はエリート社員」とかいうタイトルの手記が掲載されていた。ご主人が準大手の船会社でボースンをやっているらしいが、その人が家では靴下も自分ではかないとか、とにかく何もやらないということが、えんえんと書かれてあった。読んでいてこちらが赤面しそうな内容だったが、こんな人が定年退職して毎日家にいたら、家庭内が大変なことになるんじゃないかと、人ごとながら心配になったものだった。

 おそらく女房や子供等も、そこまではいかないまでも、これに近い状態を心配していたんだろう。しかし、朝起きてから寝るまで約18時間、毎日一連の作業を続けているが、飽きるという事はない。しかも出歩かないから金も使わない。まさに一石二鳥だ。気が乗る時、乗らない時、しんどい時も、面倒な時もあるが、多少手を抜いても必ずすべてを完了させるようにしている。これは自分との約束だから、いつでも破る事はできる。しかし破ることはできない。精神的な充実を求める一方で、自分を騙すという行為は、よって立つ基盤そのものを破壊し、自分の存在意義をも失ってしまいそうだ。あと10534日になるかどうか、自分で納得のいくまでやり続けるしかないんだろう。