無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10532日

 今日は朝から雨で、こんな日は誰でも少しは気持ちが沈んで来るんだろうが、わしは1日中家にいるようになってから、こういうことが特に気になりだした。朝起きて雨が降っていても、仕事に出かけなければ、という気持ちがあれば、嫌だなと少しは思っても、気分がどうのこうのという、個人的な感情に付き合っている時間はないし、職場に行けば、夕方まで外に出る事もないので、雨が降ろうが雪が降ろうが関係なかった。しかし今は、朝起きて感じたことが、その場だけで終わらずに、様々に変化しながら、わしの行動やら、考え方に1日中影響を及ぼすことがわかってきた。

 この間、何かで読んだのか、話しているのを聞いたのか忘れたが、片岡鶴太郎さんが、毎日やることがいっぱいあって、自分は朝起きるのが楽しくてたまらないと言っていた。わしはよく知らないが、積極的にいろいろなことをやって、何でも器用にこなしているように紹介されていたから、充実した毎日を送っているんだろう。うらやましい限りだが、こんな話を聞くと、わしなんかは、物事には必ず裏表があることを、忙しさによって忘れているか、或は忘れようとしているんじゃないか、などとついつい、いらんことを考えてしまう。

 禍福は糾える縄の如し言われるように、福だけが欲しいといったところで、禍ももれなく付いて来るのが、人の世の習いだ。また、山高ければ谷深し、治にいて乱を忘れず、昔からいろいろ言われているにしても、頭ではわかっていても、人間やっぱり楽しい時はおもいっきり楽しみたいし、それがいつまでも続くと思いたいのが人情だろう。そのためには、忙しく動いていることだ。忙しく動いている間は、時間が経つのも早いもので、一時は禍、谷、乱、を忘れさせてくれるのも事実だ。

 わしのように、1日家にいて、ほとんど外へ出ない人間は、それらを忘れることがない。朝起きて楽しい感情を感じたとしても、それがいつまでもは続かない。禍、谷、乱、これらがむくむくと沸き上がってくるのを押さえるすべは無い。常に不安と隣り合わせだが、逆に、そこに不安を自力で解消するための秘訣もあるような気もしている。惹起される様々な感情の全てが一つの流れになって、ぐらぐら揺れ動いているようだが、そこに妙な安定感があるのも事実だ。