無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10529日

 家電製品がいつごろから一般家庭に普及し始めたかわからないが、うちが電気釜を買ったのは、わしが小学校の3年生くらいだったと思う。これは画期的だった。東芝の電気釜だったが、いくらいしたのかは知らない。それを買うまで、毎朝おふくろが早く起きて、薪を割って、わしらが「おくどさん」と呼んでいたかまどに火を起こし、飯を炊いていた。晩飯の時は、時々わしらも手伝って、火吹き棒という、50cm位の竹筒の先に、きりで穴を開けた筒を吹いて、火の番をしたものだ。炊きあがったら、お釜ごと持って来て、昔店をやっていた頃の看板だったんだろう、マツダランプと書かれた鉄板の上にそれを置いて、親子4人でちゃぶ台を囲んで、食事をしていた。

 うちは、先月亡くなった従兄弟のJさんが、昭和30年くらいに高校をでて、プロパンガスの会社に勤めていたので、台所のガス化は近所でも一番早かった。その頃はまだプロパンガスは高かったかもしれないが、おふくろも子供の時からかわいがっていたJさんに勧められたら、一も二もなく承諾したんだろう。これのおかげで七輪で火を起こさなくても、簡単に茶が飲めるようになった。

 小学5年生の時に、冷蔵庫、洗濯機、掃除機を一度に購入して、我が家の電化が一気にすすんだ。日立の店で買ったので、全部日立製だったが、わしらの間では、当時はなんといってもナショナルが一番有名だったのに、なんで日立を買ったのかよくわからなかったな。たぶん安かったんだろう。洗濯機はVT1000という型式だったので、検索して調べてみたが、写真は残ってなかった。2階に下宿していた学生も使えるように設置したので、みんな大喜びだったな。

 冷蔵庫で一番嬉しかったのは、氷ができることと、いつでも冷たい水が飲める事だった。暑い日に、1袋10円位で売っていたソーダラップとか、ジュースの素とかの粉末を、冷たい水に溶かして飲むのは最高だった。その後カラーテレビとエアコンを昭和44年に購入したが、この頃からあるのが当たり前となり、一気に電化が進んで来た感じだ。おふくろは結婚してからのほぼ全部の家計簿と、親父の給与明細を残しているので、いつになるかわからないが、そのうちにこれを整理して昭和の生活をデータベース化したいと考えている。