無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10526日

  初めてハイヤーに乗せてもらったのは、3歳か4歳の頃、兄貴と2人でアデノイドの手術を受けた時だった。手術がんばった褒美にでも乗せてくれたんだろう。ばかでっかいアメ車だったが、車内が家みたいに広いんでびっくりした。当時はまだタクシーが普及してなかったので、電話でハイヤーを呼ぶのが一般的だったようだ。日本車は性能が悪かったのかどうか知らないが、ハイヤーはアメ車が多かった。日野ルノーという小さな車があったが、これはこの地方の私鉄がやっているハイヤー会社が使っていた。日野自動車は、わしの俳句のB先生が銀行退職後、重役で天下った会社だった。B先生もこの日野ルノーはなかなか良い車だったと誉めていたから、良い車だったんだろう。

 手術したのは個人病院だったが、当時の病院は冷房なんかついてないので、とにかく暑かったのだけは覚えている。おふくろと2人で繁華街近くにあった耳鼻咽喉科に、夏の暑い頃に何回か通ったことがあるから、おそらく診察に通っていたんだろう。待合室は暑かったので、外のベンチに腰掛けて、おふくろが扇子でわしを扇いでくれた。

 手術当日は、わしは何をするのかよくわからないうちに麻酔をかけられたんだろう、その後の事は全く覚えていない。気が付いたら、病院の畳敷きの仮眠スペースのようなところで、兄貴と一緒に寝かされていてた。その後麻酔が完全に醒めるのをまって、家に帰ったが、このときわしがハイヤーで帰りたいと言ったような気がするが、定かではない。こうしてわしの最初の手術は無事終了した。

 わしにとって、次回の手術はあと10794日で書いたように、31歳の時で、この時は近親者を呼ぶように言われていたらしいから、本当に棺桶に片足を突っ込んでいたんだろう。しかしなぜかわしは死ぬ気はしなかった。それより、この時の入院で一番ショックだったのは、隣のベッドにいた退院間近の人が、急変してあっという間に意識不明になってしまったことだった。ついさっきまで、わしと普通に話していた人が、医者が肺の管を交換した直後に咳き込み、血を吐いて意識不明になってしまった。明らかに医療ミスだと思ったが、めったなことは言えない。医療裁判になって証言を頼まれたら、応じるつもりでいたが、話はなかった。示談になったのか、或は奥さんも人のよさそうな人だったから、病院に丸め込まれたのか、その後の事はわからないが、回復されていたら70代半ばの歳になっているはずだ。

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