無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10524日

 最近暑くなって来たので、部屋の窓を開けることが多くなったからだろうか、午後3時頃になると、どこかからリコーダーの音がよく聞こえて来るようになった。毎日吹いている割にうまくならないのが不思議なんだが、一体誰が吹いているんだろうと気になりだした。2階で、わしの机の前に座って聴いていると、北の方角から聞こえて来るし、1階のキッチンで聴くと東から聞こえてくる。半径50m以内に小学生はいないと思うんだが、ひょっとすると、近所の老人が老化防止のため趣味で吹いているのかもしれない。そう考えると、幾ら吹いても上手くならないというのも納得できるような気がするし、聴いているのも楽しくなる。

 近所に、女房に頼まれて、時々買い物に行く個人商店がある。そこのおばちゃん、と言ってもわしより10歳以上は年上のおばあちゃんだが、ほんとうに静かで穏やかな人だ。その人は、おふくろのことは昔からよく知っていたが、わしらはここ10年くらいのつきあいになる。おふくろとは気があっていたみたいで、買い物に行くと、よくおふくろの話をしてくれる。おふくろもそうだったが、このおばちゃんを見ていても、女性は歳をとっても変らないような気がする。金があればあるなりに、無ければ無いなりに、亭主が元気ならそれなりに、死んでしまえばまたそれなりに、上手く順応して、柔軟に生きて行く智慧を、生活の中で身につけているようだ。

 自分の事は二の次で、子供のことだけを気にかけて、毎日を送って行くなかで磨かれていく智慧は、男なんかが逆立ちしても手にいれることはできないだろう。わしもこの1年、家でいろいろやってきたが、何をするにも、いちいち理由付けをする自分に気が付く事がある。無償の行為だといったところで、決して楽しいからやっているのではなく、それをするためには自分を納得させなければならないということだ。これをやめない限り、世間的にどんな上手い事を言ったとしても、どんなに知識を積み上げたとしても、自分の中に本当の平穏はやってこないだろう。最近わしはこの智慧を磨く事こそが、人生の最終目標ではないかとさえ思えるようになった。