無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10523日

 若い頃に、定年退職後は収入が減る分、慶弔費が出費の大きな部分を占めるようになる、というような話を聞いた事があったが、実際わしがその歳になって、まさにその通りだと実感している。慶弔といっても慶事に関しては、もう終わってしまって、わしなんかが呼ばれることはないが、弔事に関してはこれからが本番だ。それに3回忌、7回忌、13回忌と続く法事も結構負担になる。

 今年の11月にはおふくろの13回忌なので、案内をしないといけないんだが、わしはいつも往復葉書を使うようにしている。電話で確認すれば安く、簡単にできるが、わしが葉書を使うのには理由がある。それは、電話で案内されたら断りにくいということだ。高齢になると、向こうにもそれぞれ事情があるだろう。その点葉書なら、理由を書いて投函するだけだから、負担に感ずることがないのではないだろうか。実際わしなんかも、親父やおふくろの関係者の法事はもうやめようと思っていても、電話で直接「○○ちゃん来てや」と言われたら断れない。

 それなら初めから案内をしなければ良いんじゃないかと思ったりもするんだが、それでも、法事は死んだ人のためにやる以上、来る来ないにかかわらず、一応関係者には知らせておかなければまずいだろうと思う事もある。今度のおふくろの13回忌の法事も、何処まで案内をするか迷っている。案内すればみんな来てくれるだろうが、案内しなければ、向こうも知らなかったですむ話だ。甥や姪はやめとこうかと考えたりもしている。

 最初に書いたように、弔事には金がかかるということは、やはり自分が年金生活を始めて実感した。親父の死後、親父がやっていたつきあいをそっくり背負い込んだなかでも、この弔事のつきあいが最も負担が大きいことを知った。不義理なようだが、本音ではこういうつきあいは、できたら減らしてほしいと常に願っている。

 わしがこのように考えていると言う事は、案外、世の中の年金生活者の多くは、同じ事を考えているのかもしれんな。そうだとすると、案内を出さないのも親切ということになるのかな。