無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10521日

 古事記神代巻の音読を始めて、今日で430日目になる。62回読み終わり現在63回目だ。計算上は1回読むのに約1週間かかっていることになる。何があっても必ず1日に一度は本を開くようにしているので、全く読まなかった日は1日も無い。430日毎日読んで来た。だからどうしたと言われればその通りで、読んだからといって別に何がどう変るというものでもない。ただ、古事記は430日前まではまともに読んだ事は無かった。たまに本を開いても、なんとかの神、なんとかの神とやたら出て来てくるので、かったるくなって読み通したことはなかった。

 去年の4月から読み始めても、最初の頃は、すぐに眠たくなったり、気が散ったりして、なかなか読めなかったが、一度に読む量を少しずつ増やして行くようにして、馴染んで行った。もう30年以上も前になるが、ある教祖が『大国主神国避の段』の話をしてくれたことがあった。当時は宗教には興味はあっても、神道に関する基本的な知識もなかったので、何を言っているのかよくわからなかった。そもそもそれが古事記の話だということも知らなかった。

 この時は、話の中で鹿島神宮の建御雷神のことがでてきた時に、この『大国主神国避の段』を紹介して、国譲りの談判に行った武道の神様だということを話してくれたんだと思うが、昔のことなのではっきりとは覚えていない。当時はわしの周囲に、寺の坊さんとか、仏教の学生とかがいて、神道なんていうのは幼稚で、宗教とさえいえないものだという雰囲気が漂っていた。

 しかし、今から思えばそれも半分は当たっているのかもしれない。神道が幼稚だというのは間違っている。神道は決して幼稚ではない。しかし、所謂宗教ではないというのは、間違っていないとわしは思う。教義や戒律があるわけではないし、宗教というより個人個人が、それぞれ自分の生き方に合わせて、試行錯誤をくりかえしながら、正しい道を模索して行くための道程とでもいったほうがぴったりくるような気がする。

 そして、幸運にもそれをさらに一歩進めることができたら、或は古事記の神々との邂逅があるのかもしれない。もし其の時がきたなら、初めて自分の歩んできた道が正しい道だったと自信をもって言えるのではないだろうか。あと10521日でだめなら、続きは来世ということだ。