無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10519日 引き揚げ船の真実

 わしが船乗りになった昭和48年当時、戦後外地からの引き揚げ船を運航した経験のある人達が、まだ現役で船に乗っていた。わしが乗ったCHEVRON所有のR.B.John-sonという10万トンタンカーにも、1人いたのを知っている。この船は乗組員の年齢も若く、船長機関長も30〜40歳代で航海士機関士もみんな20代だったので、年齢的に他にはいなかったようだ。その人の名前も忘れてしまったが、兵庫県小野市に家があると話していた。仮にJさんとしておくが、この人は50歳前後の繰機手で、最初わしと一緒に当直に入っていた。

 Jさんは社員ではなく、海員組合の斡旋で来ていたので、一度下船すると次が無いという不安定な勤務形態だった。それでわしが乗った時、すでに1年以上乗っていると話していたし、わしが下船するときもまだいたから、何年も乗って金を貯めていたんだろう。DIYショップみたいなのをやりたいと話していたから、ひょっとしたら今頃どこかで社長をやっているのかもしれない。

 或る夜の当直中に、そのJさんがわしに引き揚げ船の話をしてくれた。

 着の身着のままで乞食同然の大勢の日本人が、貨物のように詰め込まれて乗ってきたが、ほんとうに気の毒だった。中でも亭主を亡くしたり、はぐれたりした、女性一人の引揚者は危険でもあり、可哀相なものだった。Jさんは所謂ヘイカチと呼ばれた下級船員だったが、それでもノミやシラミに悩まされていた引揚者から見ればあこがれの的だった。風呂も入り、3食たべて、シーツのかかったベッドで寝ることができる。

 或る時Jさんは若い後家さんと知合いになった。というより向こうから近寄って来たらしい。当時こういうことはよくあったことで、それはJさんのような独身者だけではなかった。風呂に入れてやったり、食事も分けてやったり、男物だが下着もわけてあげた。当然ベッドにも一緒に寝るので、Jさんもセックスの処理ができる。仕事中は掃除洗濯もやってくれる。しかも女性の安全も守られる。こうして2人は日本に帰るまで、擬似的な夫婦関係になるわけだ。ギブ&テイクの関係といえばそうなんだろうが、女性のほうも生きるのに一生懸命だったんだろう。

 不思議な事に、その後43年間、戦争関連の本はたくさん読んだが、このようなことを書いた本を読んだ事がない。話として聞いたのもこの時だけだ。戦後の混乱期で、モラルも崩壊していたんだろう。人生の恥部として、みんな忘れたいという思いがあったのかもしれない。

Jさんもご健在なら90が近いと思うが、元気でやっているのかな。