無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10509日

 1人で家にいると、様々なことが思い浮かんで、放っていくといつのまにか消えて行く。すべて過ぎ去ったどうでもいいことだが、消えたと思っていても、ちょっと油断すると何回でもやって来て、どうだひとつ考えてみろ、はっきりさせといた方がいいだろう.........。などと催促する。麻雀したり、酒飲んだりしていれば、その間はこんなものがやってくることはないんだろう。人が忙しくしたり、快楽を求めたりするということは、こんなことから逃避したいという願望の現れではないかと思うことがある。

 生まれてから65年間、多くの人と出会い、楽しかったり、悲しかったり、たまには軋轢もあったり、喧嘩もしたりして来た。わしが嫌な奴だと思ったら、相手もそう思っていただろうし、わしが不愉快に思ったときは、多分相手もそう思っていただろう。例えば、列に並んで待っている人がいるのに、それに気が付かないで前に並んだとしたら、以前から並んでいた人は当然怒るだろう。しかし、列に気が付かないで先頭に並んだ人の行動は単なる過失にすぎないのに、あまりひどく怒られるとこちらも気分を害すだろう。結局どちらにも怒りの記憶として残るわけだ。

 このような怒りの記憶も、時々蘇って来ることがある。その時、わしは次のように考える事にしている。『世の中は大きな力で満たされていて、すべては連動している。わしはあの時Bに対して怒りを感じた。その怒りは今また蘇ってきたが、今この瞬間、Bも同じように、わしに対する怒りが蘇っているに違いない。もし、わしが怒りをコントロールできれば、Bのわしに対する怒りも収まるに違いない。それが出来た時この件に関する両者の怒りの連鎖は解消される。』

 毎日の感情の浮き沈みは、考え方1つでコントロールできるが、1日1人で家にいると、めまぐるしく変化する感情の流れに辟易することがある。例えるなら、株や、225などに投資していて、その流れを追っているときのようなものだ。露骨に損得がかかったときほど、本音がでるものだ。プラスが増えて行けば世の中バラ色、マイナスが続けば即座に地獄行きだ。このような極端な感情の変化というものは、ほんと嫌になる。

 だからといって、あれはいいが、これはいけないなどと規制しても、人生つまらない。ほんとうは、逃避するも良し、感情の浮き沈みも良し、怒りの感情も良し、解消出来ればなお良し、自分の周りにおこることはすべてOKだと認める事さえできれば、それですべてが解決して楽になるんだろうが、それはいつの事かな。