無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10502日

 わしの中学生の頃は、市内に県立普通高校は3校しかなく、大学へ行こうと思ったら3校のどれかに入るしかなかった。また、大学進学率が10%台の頃だから、普通高校でも就職クラスが半分くらいあったし、中学卒業後、集団就職で都会に出て行く子供等も多く、その季節になると、毎年集団就職列車が仕立てられて、旅立って行くニュースがテレビで流されていた。みんながみんな、大学はもちろん、高校へも進学することがなかった時代だった。

 当時は、高校入試は一発勝負で、その日体調が悪いと、普段いくらできていても不合格になることもあり、『15の春を泣かせない』などという、甘いスローガンを掲げて、内申点を加味するよう求める団体が、騒いでいた時代だった。わしは、試験は選別する為にあるんだから、その尺度は単純な程わかりやすいという考え方で、筆記試験一発勝負賛成派だったが、多くはそうではなかった。しかし賛成する人も反対する人も、内申点をつける中学校教師が、まともであれば有効に機能する、という前提条件があるということを忘れていたのかもしれない。

 それから30年経ち、今度は自分の子供等の高校入試の時期がやってきた。そしてまず第一に、わしらの頃に比べて、中学校の教師の質の低さに驚いた。わしも時々授業参観に行ったが、ひどいのになると、琵琶湖が大阪にあると言った社会科教師がいた。しかも生徒も誰もその間違いを指摘しない。わしらの頃なら、教師が間違ったことを言ったら「先生違いますよ。」と、絶対に誰かが指摘したはずだ。この、教室に漂う無気力感は、一体どうしたことだろうと考えたものだ。

 長女が入試の頃、内申点が悪いと、試験で満点をとっても受からないかもしれないと聞いたことがある。それでは逆に言えば、試験を受けなくても、内申点だけで合格できるということなるのかと呆れた。しかもその内申点をつけるのは教師の主観で、不平を受け付ける機関は事実上ないんだから、それではあまりにも教師性善説が過ぎるんじゃないだろうか。この公立中学校の教師の多くは、教職に対する畏れというものを持っていないように感じた。単なるサラリーマンに徹するならそれでいいんだが、指導と称して、内申書を道具にして、生徒を黙らせるというやり方には、心底腹が立ったこともあった。

 やはり、内申点という制度が、質の悪い教師によって、ねじ曲げられているんではないか。或は質の悪い教師が生き残るための手段となっていないか、非常に疑問を感じている。若者が人生の門出を邪魔されないためにも、わしは入試は一発勝負自己責任に限ると思う。そして授業で不勉強な教師をやりこめるのもいいだろう。そのほうが教室にも活気が出るし、教師のためにもなる。