無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10492日 雷撃機出動

 東京に住んでいた31歳の頃のことだが、わしが転職して田舎に帰るというので、職場の先輩の永村さんが送別会代わりに新宿ゴールデン街、銀巴里、銀座のバー「ルパン」等珍しいところにいろいろ連れて行ってくれた。何年も東京に居ても初めての所ばかりだった。最後に連れて行ってくれたのが、たしか西荻窪にあった「馬車屋」という酒場だった。

 永村さんは若いときから軍艦の写真や本を集めるのが趣味で、かなり年期が入っていた。「丸」とか「世界の艦船」の編集関係者ともコネクションがあったようで、案外その方面では有名な人だったのかもしれない。わしはその「馬車屋」についても何も知らずについて行っただけなんだが、そこで思いもかけない人と出会った。

 店に入ると、カウンターで2人の老人が旧海軍軍用機の模型について話していた。わしはテーブルに座って聞くとも無く話を聞いていると、1人は誰でも知っている有名な模型会社の社長で、もう1人の白髪の老人から意見を聞いているようだった。Nさんが「森さん」と声をかけるとその白髪の老人が振り返った。Nさんが「元海軍少尉の森さんです。」とわしに紹介してくれた。先ほどの軍用機の話と、森という名前、それに見た所、隻腕であることからわしはピンと来た。

 「ひょっとして、あの『雷撃機出動』の森拾三さんですか?」と尋ねると、穏やかな声で「そうです。その森です。」と答えた。『雷撃機出動』とは昭和43年に河出書房新社から出た本で、わしも持っていた。まさかあの本の作者に会えるとは夢にも思っていなかった。わしがこの本を覚えていたのは、作者が指揮官個人をひどく批判していたのが印象的だったからだ。恐らく今ならああいう書き方はしないだろう。閉店前で時間もあまり無かったとはいえ、そのことについてだけは聞いてみたかったが、情けない事にそれを切り出すだけの度胸も気力もなかった。

 また来ますと言って店を出たが、すぐに田舎に帰ったこともあって二度と行く事はなかった。大正6年生まれだから当時66歳で、今のわしと同年齢だったことになる。さすがにもう亡くなられているだろうな。

終戦日に森さんを思い出して

 白髪の 少尉凛たり 終戦