無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10490日

 親父がうつで家に閉じこもっていた頃、晩ご飯の時間だけは5時半と決まっていたので、女房はそれに合わせて支度をしていた。長女は社会人で帰るのが遅かったし、長男も二男も県外の大学生で、親父に合わせることはできない。女房も、2人で顔を突き合わせて、黙って食べるのはつらいので、わしに早く帰って一緒に食べてほしいと言い出した。

 仕方ないので、わしも終業時間がきたら、すぐに職場を出るようにした。これが1年以上も続いた。しかめっ面で黙って食べている親父に何を話したらいいのか、わしもわからなかった。あれほど楽しく話していた、朝鮮営林署時代の話もしなくなり、たまに話しても、嫌な思い出や、辛かったことばかりで、完全なマイナス思考になっていた。うつになったら、楽しかったことなんかを、真っ先に忘れてしまうものなのかなと、寂しくなってきた。

 10年ちょっと前のことなんだが、あの頃の事は、その多くを忘れてしまった。どういう風に老人ホームの話をもっていったのか.........とにかく、いつまで続くかわからない今の生活は、女房も限界に達していたし、親父には悪いが、わしは、まず守るべきは自分たちの家庭だと信じていたから、おそらくそのことを親父に話したんだろう。内心はどうかわからないが、案外簡単に同意してくれた。後から女房と、親父に老人ホームに行ってもらう以上、わしらも最後まで子供に見てもらおうなどと望むことはできんなと話し合った。

 親父が亡くなって暫くして、女房の父親の法事があった。その時に来ていた女房の叔父は、ボケて寝たきりになった両親を夫婦で20年以上見て来た人で、苦労談を聞かせてくれた。わしが、父親を亡くした事は悲しい事だが、見送る事ができて、ほっとした気がするのも事実だと話した時、その叔父は、それはよくわかると言ってくれて、「親が長生きしてくれたことは、嬉しいけどそれだけじゃない、自分等も夜帰ってきて、オシメの始末をしながら、まだ生きとんのか、いいかげんで死んでくれと思ったことも何回もあった。」と話してくれた。それでも兄弟姉妹の多くが近くに住んでいるので助けにはなったようだ。

 女房も、誰かもう1人、一緒にみてくれる女性がいたら、家でみることはできたと言っている。昔は兄弟も多かったので、人手があったが、うちの場合、兄夫婦は千葉に住んでいるし、仕事をしているから全く戦力にならない。このままでは共倒れになることは明らかだった。おふくろが死んでから5年間、家で、うつの親父をみてくれたことには感謝している。