無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10486日

 わしらが中学生高校生位までは、学年全員で歩いて遠足に行くとか、映画を見に行くとかという行事があったが、うちの子供等の頃は既になかったから、25年程前にはもうなかったということなんだろう。わしにとっては、昭和43年に、瀬戸内海の島の学校に入学してすぐに、一年生全員80名ほどが、寮の賄のおばさんが作ってくれた弁当を持って、昼飯をはさんで3時間程、島南部を一回りしたのが最後の記憶だ。

 当時は寮生活が始まったばかりで、上級生もいるし、自由に行動できる範囲も少なかった。一年生だけで、初めて島の中を自由に歩けるというので、わしらは楽しみにしていた。当日天気は晴、島の中学出身のK君とO君の2名が先導となり、担任教官2名に引率されて2列縦隊で寮の門を出た。50m程歩くと、除虫菊の小さな工場があり、季節になると近在の島から除虫菊が送られて来て、蚊取り線香を作っていた。このあたりの島は、昔は除虫菊が栽培が盛んで、定期船から眺めると、島中が真っ白の除虫菊の花で埋め尽くされていた光景が、今でも眼に焼き付いている。

 その角を右に曲がり、○○神社の参道を右に見ながら道なりに100m程行くと、島内に1つだけあった、映画館があった。客席の前半分は畳敷きで、後ろ半分は4人がけの粗末な木の椅子が並んでいた。○○港を過ぎて左に海を見ながら歩いていると、隣の島にあるH造船が見えて来た。その周辺は、新造船や定期点検の船でいつもごった返していた。当時は、それを当然の景色としてみていたが、今とは隔世の感がある。

  1時間程歩くと右に曲がり、島を横断する山越えの道に入った。ひと1人が歩くのがやっとというような山道を、20分ほど歩いて頂上までくると、反対側の海が見えてくる。青いきれいな海だった。こちら側は、遥か沖に主要航路が通っているので、大小さまざまな船が行き交っているのが見える。島影から現れた、速力試験中の新造貨物船が、白い航跡を残して走って行った。

 この時、16歳のわしは、あの「みかんの花咲く丘」を思い出していた。

1)みかんの花が 咲いている 思い出の道 丘の道 遥かに見える青い海 お船が遠く霞んでる。

2)黒い煙をはきながら お船はどこに 行くのでしょう 波に揺られて島の影 汽笛がぼうと 鳴りました。

3)いつか来た丘 かあさんと 一緒にながめたあの島よ 今日も1人で見ていると やさしいかあさん 思われる。

16歳で家を出て、おふくろがなつかしかったんだろう。それから40年後、おふくろが亡くなった時も、この歌とこの時のシーンを思い出し、今度は本当に1人になったなあと涙が出てきた。

 学年単位での、歩いて遠足というのはこの時が最後だった。交通事情も変わったし、世の中も、人の考え方も変っていったんだろうな。