無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10483日

 3泊していった長男嫁、孫2人が、昨日家に帰ったので、久し振りに1人で静かな1日を過ごす事ができた。賑やかなのも、それはそれで楽しいんだが、それでもいなくなるとホッとするのも事実だ。これも贅沢な悩みなんだろうな。

 今のわしは、元気でいさえすれば、一応食べる事はできるが、電気ガス税金等必要な生活費を除くと、ほとんど残らない。実質的には生活保護以下の収入で、若い者なら、将来への不安で、とても耐えられないだろう。それは収入面だけではない。定職に就かず、毎日家にいる自分自身対する嫌悪感にも、悩まされることだろう。これは23歳から28歳までのわし自身のことでもある。その不安や、自己嫌悪から逃れたいと思う気持ちが励みにもなり、生きる原動力にもなるんだが、其の時はそこまではわからない。しかし、わしは少なくとも人生を悲観した事はなかった。先は暗黒ではなく、なんとなく明るく見えていた。

 当時、落語家の柳家こさんだったと思うが、どん底のときも、遠くの方が何となく明るく感じていたというようなことを、テレビで話していたのを見たおふくろに、お前はどうなんだと聞かれたことがあった。その時、あらためてわしも人生の広がる果てを眺めてみた。「わしも明るい、心配ないよ。」そこには何の根拠も無いが、2人でそんな会話を交わしたことがあった。2人とも安心したかっただけかもしれない。しかし、この時そんな気がしたのは事実で、その瞬間のことは、今でもはっきり覚えている。

 人生ほとんど終えて、貧乏にも耐えられるし、今の所健康不安も無い。衣食住に関しては、なんとかやっていける。ではそれで不安が無いかといえば、そんなことはない。息をしている限りそれはどこまでも付いて来るようだ。しかし、不安はあっても、若い時の不安とはまた違って、先が短い分だけコントロールしやすいというのか、明るい不安とでもいうのか、それほど苦にならない。

 死は近い将来やってくるにしても、その時たじろぐ事無く、従容として死を迎える準備ができているかどうかということになると、今の所、自信を持ってイエスということはできない。これが今の最大の不安といえば不安だ。これをコントロールすることさえできれば、昭和26年から始まったこの人生、いつ終わっても悔いは無い。