無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10474日

 わしの親戚関係で、親父の方は、みんな堅い職業についている人が多いが、おふくろの方は、いろいろな人がいて、面白い。昭和19年に、ニューギニアで戦死した長兄の3人の子供は、今年の3月18日に亡くなったJさんを含めて、3人とも社長になっている。3人とも良い人で、わしら兄弟も、小さい時から、かわいがってもらった。特に末っ子のTさんは、所謂、立志伝中の人だが、父親は、生まれる前に、名前だけつけて出征し、戦死したので顔を知らない。

 Tさんは勉強は嫌だといって、中学を卒業して働き始めた。昔は中学を出て働く人は多かったから、これは別にめずらしいことではない。最初、大会社の工場に工員として勤めたが、何年かして辞めてしまった。その後、海産物の食品加工業をしている、親戚の○○堂という会社に入れてもらって働いていたが、そこで働いているうちに、安く仕入れて、付加価値をつけて高く売る、商売の旨味に気が付いた。

 自分で海産物を仕入れて、この○○堂に卸すだけで儲かる、安い給料で人に使われているのは馬鹿らしいと思ったTさんは、独立することにした。今でもTさんは、この○○堂には世話になったと話しているように、親しい親戚の会社だから、やらして貰えたんだろうが、昭和44年に別府に渡って、漁師から小魚を直接買い取り、それをさばいて、天日で乾燥したものを○○堂に卸すという仕事を始めた。

 わしはその夏に、Tさんに誘われて別府の現場に行ったことがある。掘建て小屋ともいえない、屋根の破れ目から、月を眺めながら寝るという、ほとんどアウトドアに近い生活をしていて、わしは一週間でギブアップした。帰りは360cc2サイクル軽トラックの荷台に、出来上がった干物を山積みにして、山を越え海を越えて○○堂まで運んだ。道中、「この荷物を降ろしたら、かなり纏まった金がはいるので、車も大きなトラックに買い替えるし、バイト代も弾むから、また一緒に行こや。」と誘われたが、あの生活はちょっと勘弁してほしいと思ったな。

 これで資金を貯めたんだろう、この後、Tさんは○○堂から離れて、本格的に工場を建てて、全行程を自前でやる会社を起こした。しかし、これで順風満帆なら立志伝中の人にはならない。その後は、危ないとか、JさんがTさんのために田を売ったとか、そんな話をおふくろがよくしていたから、思うように儲からなかったんだろう。不渡りをつかまされて、3回夜逃げ寸前までいったことがあったらしいから、その頃のことかもしれない。しかし、昭和59年か60年あたりから風向きが変わってきた。

 千葉で伯父の葬儀があったとき、ダブルの黒のスーツを着て、サンプルを詰めた、黒いアタッシュケース下げてやって来たTさんを、吉本新喜劇みたいだなと笑っていたが、Tさんは「お前等、都内のダイエー○○店に行ってみ、わしの会社の商品が並んどるから」と言い出した。正式にダイエーと取引が始まったらしい。「それはすごいな、それにしてもTちゃん、だいぶ鼻息が荒いのう。」とみんなにからかわれていたが、本当にこれから快進撃が始まった。

 その後20年で、ダイエーとTさんのH商店の立場は逆転した。世話になった○○堂も追い越してしまった。おそらく、今ではあの町内では一番のお金持ちだろう。二男が高校生のとき、社長室に尋ねて行ったことがあった。そのときTさんは二男に意外なことを言った。「こうやって商売して儲かってええなと思うかもしれんが、大変なんじゃ。今から思うて、人生一番ええのは、こんなことやらずに、一流企業の社員になるか、公務員になることやぞ。」大成功したTさんだから言えることかもしれんが、仕事に注ぎ込むエネルギーたるや、勤め人とは比較にならないだろうし、気楽なサラリーマンが羨ましいと思う事もあるんだろう。

 Tさんは話も面白く、誰にでも好かれて、成功した事を、周りのみんなが自分の事のように喜んでいた。最近酒を飲んだとき、あの別府の話をすると、そんなこともあったなあと言った後で、「そうそう、あれからが面白かったのに、残念じゃったな。」と言った。Tさん、別府で儲けた金で、「別府らくてんち」を一晩借り切って遊んだらしい。わしもそれを聞いてびっくりした。いったい幾らかかったのかは忘れたと言っていたが、商売で成功しようと思ったら、これ位ダイナミックに金を使う度胸も必要なのかもしれんな。わしには無理だな。