無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10468日

 

tysat1103.hatenablog.jp

 伯父がニューギニアで戦死したことから、わしはニューギニアの戦いについて、図書館へ行ったり、古本屋を回ったりして調べたことがあった。支那大陸でも、ビルマでも、フィリピンでも、ラバウルでも、部隊が部隊として行動し、その記録が戦友会などで作られているんだが、ニューギニアに関しては、それらが非常に少ない。当時からジャワ天国、ビルマ地獄、生きて帰れぬニューギニアと言われていたように、生存者が極めて少ないうえに、多くを語らなかった。それほど過酷な状況だったといえるんだろう。

 そもそも誰が、ニューギニアまで行って、地図も無い人跡未踏のジャングルの中で、補給もなしに戦争ができると考えたのか知らないが、頭が狂っているとしか言えない。昭和19年といえば、既に日本軍はガダルカナルから撤退し、東部ニューギニアのブナをとったマッカーサーは、この戦争の勝利を確信していた。ニューギニア北岸には長大な海岸線が続いていたが、そこには一本の道路も無いし、小さな原住民の集落はあっても、輸送船が着ける港は無い。米軍は大船団でやって来て、海空から襲撃して来るが、移動手段さえ持たない日本軍は、バラバラになってジャングルに逃げ込むだけだった。それは戦争でもなんでもない、屠殺のようなものだ。

 公報では、伯父は、ニューギニア西部の、サルミで戦死となっているが、本当は、わしはそれを信じていない。病気で、内地に送られることが、決まっていたような、弱った体で、ホーランジアからサルミまで、直線距離で約200km、人跡未踏のジャングルの中を、彷徨い、泥水渦巻く大河をいくつも渡って、サルミまでたどり着くことは難しい。様々な本で、語られている状況から考えても、よほどの幸運が無い限り、途中で倒れた可能性が高いと思う。

 14〜5年前になるが、同じ支隊の人が書いた本の中に、伯父ではないかと思える人物が描写されているのに、気が付いたことがあった。病気で顔色が悪いとか、銃器を扱っているとか、書かれてあったので、工兵で銃器が専門だった伯父ではないかと、おふくろに話した。おふくろは、そうかもしれないと言って、その部分を読んではみたが、当時の兄の姿を思い出したんだろう、つらそうだった。著者のMさんは同じ県内に住んでいるから、よければ話を聞きに行こうと思うので、○○伯母さんに聞いてみといてくれるよう、おふくろに頼んでおいた。数日後、○○伯母さんから、「○○ちゃん、気にかけていてくれて有り難う、でもね、もういいんよ。」と連絡があった。

 この話はこれで終わった。伯母さんやおふくろの中では、もう整理がついていたんだろう。何年かして○○伯母さんも亡くなり、その次の年におふくろも亡くなった。