無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10460日

 午前中、日立のサービスの人がエアコン修理に来た。この猛暑の中、エアコンの故障で冷えないのは、生死の問題にもなるので、急ぎの仕事が多くて結構大変らしい。エディオンの担当者から状況は聞いていたようで、すぐに、外側のケースをはずして点検を始めた。

 うちのエアコンは密閉配管なので、ドレンをガス配管とは別の経路で流すようになっているんだが、その時の工事に問題があったようだ。使っているドレン用パイプが純正品ではなく、エアコンに差し込んであるだけで、ネジで固定できてない。そのため、ゆるゆるで、すでに半分抜けた状態だった。おそらく2年の使用で、だんだん緩んで来たんだろう。そこで、差し込み口にシール剤を塗ってパイプを密着させて、その上からパテを塗って完了した。これで大丈夫と思うが、これでもまだ漏れる場合は、もっと大掛かりになるので、ひとまずこれで様子を見てほしいということだった。

 書けば、たったこれだけのことだが、わしの意識の中では、久し振りに何かを成し遂げた、充実感で満たされていた。ほんと滑稽だが、こんなちょっとしたことが、人が生きるための原動力になっているんではなかろうか。誰かの一言、何処かで聞いたワンフレーズ、映像の1シーン、それによって人生が変わることもあるように、どんな小さなことでも、ひとたびそれと波長が合えば、増幅され、心が満たされ、幸せになることができる。

 ずっと家にいても、この感覚は時々やってくる。外面的な変化が無い分、内面的な変化に敏感になるのかどうか、外に出て仕事をしている時より、多いのかもしれない。自分の内面を観察しているなどと言っても、周りから見たら、何もしてないのと一緒で、笑われて終わりだろうが、こんなことやって居れるのも、先は見えているし、何とか飯だけは食っていける、年金生活者の特権とも言えるだろう。有り難いことだ。

 わしも若い頃はわからなかったが、何事に対しても、つまらないとか、馬鹿馬鹿しいとか思っていたら、幾ら立派な仕事をして、お金を稼いでも、ほんとうに辛いだけで、人生終わってしまう。エアコンの修理をしてもらった、などということは、つまらない、些細なことかもしれないが、そんなことでも、これだけの充実感を感じることができるのも人生、これを馬鹿馬鹿しいと笑うのも人生、笑いたい者には笑わせておこう。