無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10452日

 明日の夕方には、親父やおふくろが迷う事無く帰ってこられるように、迎え火を焚くが、これも今回で12回目になる。今日は長男一家も来るので、団子作りは、今年から長男に頼む事にした。これで1つ、引き継ぎが完了する。こうして、ゆっくりと次の世代へと時間が流れていくんだろう。わしなんかは、もう此の世に生まれて来た役割は、すべて果たしたと自認しているので、有り難いことに、人間だけに認められた老後という時間を、他の人や社会の邪魔をしないように、ひっそりと過ごせたらそれで満足だ。

 引きこもって17ヶ月になり、外見は毎日変化の無い、単調なリズムの中で生きているように見えるが、心の中は決して平坦ではない。多くの人が退職後、暇で時間を持て余している話はよく聞くが、それは自分の中に、常に緊張感を保っていられないからだと思う。他人との接触や、社会との関わりの中に、その緊張感を求め続けてきた人達が、突然それらを取り上げられたら、如何にして緊張感を持ちつづければいいのか、途方にくれてしまうだろう。

 わしは、社会から遮断された生活の中で、緊張感を保つために必要な物は、自分との約束、これを絶対に守るという決意だろうと考えている。自分との約束は、いつでも破る事ができるし、しかも、他の人にも、社会にも何の影響も及ぼさない。しかし、自分を騙し続ける事は困難だ。その結果は全て自分に向かってくることになる。多くの人は、それを繰り返すうちに、沸き上がってくる自己嫌悪感や精神の弛みに堪えられなくなり、再び社会との関わりの中で生きたいと思うようになるのではないかと思う。

 このブログを書く事も、約束の1つになっている。毎日、書く事があろうが無かろうが、読み手がいようがいまいが、とにかく1000字前後の駄文を必ず書き続けて、もうすぐ500日になる。読み手が少ないということは、わしにとっては安心材料で、突然カウンターがどっと増えたりすると、何かまずいことを書いたのかなと、かえって心配になる。しかし日記ではない。更新が途絶えたとき、子供等が、過去現在未来を繋ぐ糸として、このブログを楽しく読み返してほしいと思っている。

 わしは余り人のブログは読まないので、交流することもありませんが、読者に登録していただいているみなさん、時々読みにきていただいているみなさん、毎日読んでいただいているharuさん、何分、過疎ブログですので、この場を借りて御礼申しあげます。ありがとうございました。次は1000回連投を目指しますので、よろしくお願いします。