無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10448日

 カレンダーを見ると、様々な祝祭日や日曜、土曜が並んでいるが、今のわしには、そんなものはほとんど意味を持たなくなった。1日は、何の日でもなく、もし、94歳まで生きたとしたら、単なる1/34310日にすぎない。かといって、毎日が同じ色ではない。朝起きてから寝るまで、いろんなことを思いついたり、厭な事を思い出したり、不安もあるし、疑問もある。それらの多くは、いくら考えても解決できない事なのだが、それでも真夏の入道雲のようにむくむくと沸き上がってくる。

 大人になれば、少しはわかるかと思っていたが、何も変わらない。じじいになれば少しはわかるかと思っていたが、何も変わらない。変った事といえば、ごまかし方が旨くなったくらいかな。こんなことでは、わしの長寿が、みんなを幸せにするのかどうか、自信は無い。やっぱりほどほどで死ぬ方がいいのかもしれんな。

 しかし、長寿を保つというのも大変なことで、安倍首相の祖父にあたる、昭和の妖怪と言われた岸元総理が、長寿の秘訣を聞かれて『転ぶな、風邪を引くな、義理を欠け』と答えている。わしはこの話はかなり前に、どっかで読んだことがあり、その時に、『転ぶな、風邪を引くな』は、ともかく、最後の『義理を欠け』という言葉に、そのとおりと、膝を打ったのを覚えている。

 わしは以前から、年寄りは無理して葬式に参列しなくとも、弔電を打っとけばいいと思っていた。参列者が吹き曝しの中に立って、来てない人からの、同じ様な弔電を長々と聞かされる。やれ衆議院議員だれそれ、やれなんとか会社社長だれそれ、県会議員や市会議員のだれそれと、参列者にはどうでもいいことを聞かされているうちに、体の芯まで冷えて来る。年寄りには命にかかわる問題だ。日本の葬儀は、通常この形式だから、年寄りは義理を欠いて、弔電ですますのが吉ということだろう。

 この義理を欠くという、岸信介の話を、親父やおふくろにも話したことがあった。岸信介の話だからかどうか、2人とも、ものすごく納得した様子だった。それだけ、昔から葬儀に参列したことで、体を壊す老人が多かったんだろう。いくら、ほどほどに死ぬのがいいと言ってはみても、やっぱり、義理のために、自分の寿命を縮めたくはないし、与えられた寿命は全うしたいのが人情だ。奇麗ごとではなく、毎日の生活の中で、葬儀も含めて、何ごとであれ、死んだ人はまあ大事、しかし、生きている人はもっと大事、ということに徹底するべきなんだろうな。