無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10443日

 あの時、たまたまこうしたから、ああはならなかった。というようなことは、何十年も生きて来たら、誰でも何回か、経験していることだろう。単なる偶然かもしれないし、そうなるべき何かが、あったのかもしれない。昭和47年9月、今から思えば、これが人生最後のヨット体験だった。わしは、この思い出に残る、素晴らしい帆走に参加したおかげで、その後の集団食中毒を避けることができた。

 昭和47年9月、4年半の席上過程の修了式があった。10月から3ヶ月の工場実習と9ヶ月の乗船実習が始まり、次に集まるのは来年の9月ということで、寮で送別会は催されることになった。その日の昼食時に、同じテーブルなった空手部のH君に、ヨットで島を一回りしないかと誘われた。17時30分からの送別会に間に合うように、13時になったら、ヨット部のN君、I君と出かけるから、おまえも一緒に来ないかということだった。

 3時間あれば大丈夫だということで、わしとN君、H君とI君でペアとなり、2艘のスナイプで、ポンツーンを出た。当日は昼から強い北風で、出港直後は追い風になり、それに乗って順調に南下した。風の音、波の音しか聞こえないので、自然と会話も弾んで来る。南端の岬を回ったところで、N君が予定を変更しようと言い出した。「今日は風も吹いているし、最後だから百○島に寄っていこうか。」百○島というのは、沖合2Kmほどの所に或る、灯台があるだけの小さな無人島で、行ったことはなかった。

 岬を回ったところで向かい風になった。タッキングを繰り返しながら、百○島島へ向けて、快調に30分位走ったところで、突然ピタリと風がやんでしまった。こうなると風を待つしか無い。そのうちに吹くだろうと、わしらは海に飛び込んだり、泳いだりして遊んでいたが、いつまでたってもさっぱり吹かない。すでに百○島の近くまで来ていたから、本島からは1キロ以上離れている。30分経ち、1時間経つうちに、だんだん不安になってきた。

 少し陽も傾いて来た頃、ようやく南風が吹いて来た。弱い風だが、N君の巧みな操船で、艇は少しずつ動き出した。そして、本島の北の岬を回ると、今度は強烈な向かい風が吹いて来た。これは運が向いて来たとばかりに、N君の「タック!」という号令に合わせて、波をかぶりながら、タッキングを繰り返して快走した結果、予定より約2時間遅れて、出発したポンツーンに到着した。

 さて、そこから歩いて寮まで帰ると、18時半を回っていて、送別会もほぼ終了していた。食べる物もほとんど残ってないので、仕方なく、残飯のようなのり巻きと、いなり寿司を少し食べたら、すぐにお開きになってしまった。自分等の責任なので、これは仕方が無いとあきらめて、風呂に入って、疲れ果てて寝てしまった。その夜、廊下を行き来する足音と、人の声で目が覚めた。廊下に異様な匂いが立ちこめている。いったいどうしたことかと、聞いてみると、多数の者が下痢、発熱で大変なことになっていた。どうやら、送別会で食べた、何かが当たったらしい。

 トイレの数も少ないので、まさに阿鼻叫喚だったな。幸い、わしとN君、H君、I君の4人はほとんど食べてないので、高みの見物だったが、廊下やトイレが臭いのには参った。N君が、途中で予定を変えて、百○島に寄って行く事にしたのが、幸いしたんだろう。そこで、べた凪に合わなければ、2時間早く帰って来ることができたから、送別会開始に、間に合っていたことになる。そうすれば、わしらも、みんなと同じように、大変な事になっていたということだ。

 おかしなことに、この時の料理は、寮の賄いが作ったと思うが、事件は学校が握りつぶしたのかどうか、ニュースにもならなかった。送別会で、4年生5年生全員が食中毒なんていう事件は、今ならネットで、あっという間に全国に拡散するだろうな。