無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10439日 思い出のスカイライン

 昭和41年秋、中学3年の修学旅行で阿蘇、熊本、鹿児島、霧島、青島を回った。船で別府まで渡り、そこから出来たばかりの「やまなみハイウェイ」を通って亀の井バスで内牧のホテル、蘇峰館へ向かった。残念ながら、わしはすぐにバスに酔ったので、この間のことはほとんど覚えてない。

 もう半世紀も前のことで、国にも社会にも余裕がなかったこの時代、田舎へ行くとそこには本当の田舎があった。都会ではなく南九州をバスで回って、全国が均質化する前の日本の姿に触れることができたということは、今の子供等が海外修学旅行するよりも遥かにインパクトがあったような気がする。

 翌日、バスで水前寺公園熊本城を見学後、鹿児島へ向かった。水俣を通った時、ガイドさんは水俣が世界に誇るチッソ水俣工場と紹介していたが、当時既に有機水銀中毒の患者が発生していたはずだ。まだ一般的では無かったとはいえ、本当に無知とは恐ろしい。阿久根海岸を走るときは「鹿児島が誇る阿久根海岸」と紹介していたから、こんな言い回しが、当時のガイドさんの決まり文句だったんだろう。

 鹿児島では城山に登って、西郷隆盛が自決した洞窟を見学したが、その頃は、言われなければ通り過ぎてしまいそうな、何の飾りも無い普通の洞窟だった。弾が当たって倒れた西郷さんがその洞窟に運ばれて、「もうここらでよか。」と言って自害したとガイドさんが説明してくれたことは、なぜか鮮明に覚えている。わしも西郷さんが最後に歩いたのと同じ道を歩いて、ここまで来たのかと感慨無量だった。桜島を見た後、バスで霧島温泉の霧島観光ホテルに向かった。

 さて、翌朝から宮崎交通のバスになり、えびの高原を走っている時ガイドさんに教えて貰い、みんなで歌った歌があった。「思い出のスカイライン」という、なかなかいい歌だったが、不思議な事にその後一度も聞いたことがなかった。わしは何でもよく覚えているんだが、それでも一番しか覚えていない。クラス会の時聞いてもほとんどの者が忘れていた。

 最近ユーチューブで、よく古い歌を聴くようになり、ちょっと調べてみたらすぐ見つかった。宮崎の修学旅行で、同じ様な経験をした人が、他にもたくさんいたようだ。この歌は、宮崎交通が宣伝用にプロに頼んで作った歌で、南九州以外では聴けなかったようだから、わしがその後一度も聴いた事がないのも当たり前だった。途中カールブッセの「山のあなた」の一節が使われていて、いい歌だ。

  

♩♬「思い出のスカイライン」よかったら一度聴いてみてください。

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 わし等の子供の頃は、家族で旅行に行く事も無かったし、旅行といえば修学旅行くらいしか思い付かない。今でもこうして思い出せるんだから、船や、バス、汽車に乗って知らない地方を回って、見聞を広めるという役割は、十分に果たしていたと思う。

 とは言え、今もう一回行ってこいと言われたら、それは勘弁してほしい。ああいう旅行は子供だから楽しめるし記憶にも残るので、今更バスの中でみんなで「思い出のスカイライン」なんか歌いたくもない。この歳になって考えるのは、引率の先生は、さぞや、大変だっただろうということだ。夜の晩酌くらいは大目に見てあげよう。