無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10436日

 毎日毎日、家で同じ事を繰り返していると、確かに単調で嫌になることもある。毎日仕事に行けば気分が紛れるかもしれないと考えることもある。しかし、もっと広い視点で見ると、家を出て仕事に行ったところで、朝出勤して、何かしらの業務を行い、夕方家に帰るという、同じ事を繰り返していることに変わりはないということに気が付くだろう。

 さらに別の視点で見みると、生まれて死んで行くということすら、1つの単調なパターンを、何世代にもわたって繰り返しているにすぎないとも、いえるのではないだろうか。更には地球の自転公転すらも単調な動きだといえるかもしれない。そういう見方をする限り、世の中に単調で無いものなど、存在しないと考える事も出来る。

 結局のところ、個人個人がそれぞれ考えているパースペクティブの違いが、その時の気分に変化を与えているのではないだろうか。例えば、人生が単調で退屈だと思う人がいたとして、その人がそう感じた時、どのようなパースペクティブを通して見ているのかということを理解できれば、対処することができるのではないか。つまり、人生を第三者的な目で俯瞰するのではなく、細部に焦点を合わせて、虫眼鏡を覗いてみれば、ちょっとした会話や出合い、こころのときめき、喜びや怒り、じぶんが仕出かした仕事のミスですら人生における彩りとして、輝いて見えてくるのではないだろうか。

 例えば、毎日の生活が単調だと感じた時、今見ている、一日の生活というパースペクティブから離れて、今この瞬間にやっていることの意味を考え、1つ1つ動きに意識を集中させることができれば、単調でも退屈でもない、変化に富んだ時間の流れを感じることができるのではないか。

 現実とは実に冷酷で、正直なものであり、その現実を変えることは誰にも出来ない。しかし、一方現実とは単なる事実の羅列であり、それ自身何の意味も持たないものだ。現実に意味を持たせるのは一人一人の個人であり、個人がそれぞれ自分の見たい現実を現実として見ているだけであるとするならば、見方としてのパースペクティブも、自分で選ぶ事ができるはずだ。様々なパースペクティブを通して意味を考えることで、また違った生き方ができる様な気がしている。