無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10434日

 人間の記憶には濃淡があり、連続した記憶の中でもその濃さは均質ではない。また、記憶の濃淡と言うのは、覚えているとか覚えていないとかというような、0か1かという問題ではなく、濃い所、薄い所、目の粗い所、細かい所と、途中に様々な変化があり、その変化は、年齢やその時の体調等によっても左右されるものだ。

 記憶に刻まれた当時は楽しかったものでも、時と共に忘れたい記憶になることもあるし、またその逆もあるだろう。普段気が付いていなくても、無意識のうちに遠ざけている記憶もあるかもしれない。そのような記憶が浮かんで来ると、無意識のうちに、都合良く書き換えてしまうこともあるのではないだろうか。

 しかし、それらの記憶をコントロールするということは、自分の過去を外の世界に対してコントロールすることであり、決して自分自身に対してではない。自分自身に対しては、楽しかった過去も、悲しかった過去も、恥ずかった過去も、くやしかった過去も、また、人に話したい過去、話してはいけない過去、墓場迄もって行く過去、すべて隠す物は何も無いはずだ。

 以前にも書いた事があるかもしれないが、わしは昭和47年後半あたりから、48年5月頃迄の記憶が定かではないことが多い。定かでないというのは、覚えていないと言うのではなくて、覚えてはいるんだが、断片的に浮かんで来るそれ等のでき事が、実際にあったことかどうか自信がないということだ。自分の中で、無意識のうちにそれらの記憶がコントロールされているような気がしてならない。

 ラングーンの裏通りの廃墟のような一画で、わしの前を歩く物売りの少年のバッグに付けられていた鈴が、少年が歩く度にチリンチリンと澄み切った音を、静まりかえった町の中に響かせていた。わしが昨日店で買って持っていた、同じような鈴を振って鳴らすと、振り返ってにこっと微笑んで、嬉しそうに自分の鈴を2〜3回、大きく振って鳴らしてくれた。あまりにいい音がするので、その鈴を売ってくれと頼むと、これは商売道具だからだめだと断られた。少年はわしに手を振って角を曲がって視界から消えた。ぽつんと佇むわしの上には、ビルマの青い空がどこまでも広がっていた。

 このシーンは覚えているんだが、本当にあったんだろうか。或は、鈴の音があまりにきれいだったので、自分の妄想に沿って記憶を書き換えたのか、よくわからない。すでに濃い原色で上書きされたとしたら、もとのセピア色に戻す術は、もう無いんだろうな。