無駄に生きるとはどういうことか

うちの一族はがんで死ななければ94まで生きると、叔父の葬儀の日に叔母にいわれた。聞いてみると確かにわしの親父他何人も94で死んでいる。そこでわしも94の誕生日に死ぬと決めて、それまでの日数をあと何日と逆算し、切りのいい64で仕事も辞め、死への準備にかかった。その日々をブログに書いている。

あと10431日

 人間は、子供の頃はあれになりたい、これになりたいと夢を膨らませ、大きくなると、少し具体的かつ現実的になり、あの会社にはいりたい、この役所に勤めたい等、いろんな目標を設定して生きているが、外面的な目標なんかは実現してしまえばそれでおしまいで、たとえ実現しなくとも、ほかの道で成功する手段はいくらでもある。しかし現実と向き合って生きていくということはそう単純なことではない。自分の背負っているもの、心の中にしまっているもの、それらをさらけ出し、きちんと折り合いをつけることができなければ、世間からどんなに認められようと、本当の満足は得られないだろう。

 多くの若者と同じように、わしも20歳代の前半、自分はこんなに苦しんでいるのに、なぜ誰も理解してくれないのかと悩んだこともあった。これが解消できたのは曲がりなりにも仕事について、結婚して家庭を持ったからで、これがなければ結局、悩んでいるということを悩みながら、例え世間からは自由で豊かな人生を送っていると思われたとしても、決して満足することのない、寂しい人生を送っただろうと思う。正確に言うと解消したのではなくて、悩むことをやめたということだ。

 わしが悩もうが悩むまいが、現実は平然と、そこにあり続ける。現実は1つの現象であり、わしが変えることはできない。わしがその現実と触れ合うことによって今の悩みが作り出されたのだとしたら、自分が作り出したこの悩みは自分にしか理解できないはずだ。そもそも、自分にしかわからないことを、同じ現実に触れ合ったことの無い他人に理解してもらいたいと思うこと自体、間違っている。自分できっちりと折り合いをつけるか、或いはその現実と関わることをやめるか、どちらかしか道は無いと思う。

 わしは、家庭を持つことによって、新たな現実世界に引き戻されたといえるのかもしれない。家族という現実があり、それとわしとの触れ合いが生み出すものが、新しいわしの世界になる。その世界は今までの世界とは全く違うものだった。この世界に関する限りは家族同士でお互い共感できるということだ。そこに安心が生まれてくる。他の現実との触れ合いによって惹起される世界は、この安心感の前には大した意味も無くなった。そして、その世界との関わりからは、自然と遠ざかっていった。

  わしは、その過程で2つの事を実行した。1.夜は考えずに早く寝て、朝早く起きること 2.その手の本は読まないこと。大したことは書いてない。

 生き方にこれが正しいなどという指標があるわけではない。それぞれが悩んだり、心配したり、喜んだりしながら、嘘をつかず、正直に、家族を大切に生きて、死んでいくことができれば、それだけで正しく生きたといえるのではないのかな。